まーたる、ショートストーリーを書いてみた第20弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´∀`*)
「アケルナルの夜明け」
目を覚ますと部屋の中はまだ薄暗く、カーテンの隙間から差し込む月明かりが頼りなげに床を照らすのを、グレイスはぼんやりと眺めていた。
ずいぶん眠ったような気がするのに時計の針はまだいくらも進んでおらず、いったん目覚めてしまえば再び目を閉じても眠りは訪れない性質を恨めしく思いながら、ふうっと息をついて諦めたように天井をみつめた。
耳をすますと近くに流れる河の流れがかすかに聞こえてくる。
この街を守るように流れる大河の流れはゆるやかに優しい。
古代から伝わるという神の言い伝えはあながち単なる神話とは思えないほど、神秘的な姿を見せる大河であった。
目を閉じると静寂がより身近に感じられ、秒針の音がグレイスを優しく包むようにカチコチと軽やかな音を立てている。
グレイスが一日たりとも忘れたことのない、東の国での運命の出会い。
ーートウヤ……。
金色に輝くその小さな懐中時計はグレイスにとって何にも代え難いものだった。
長の古い友人の招きで訪れた東の国日本で出会った宝井董哉。
ともに過ごした時間がたとえ短いものであっても、心は誰よりも董哉と強く深く繋がっているのだとグレイスは思う。
顔も知らない母が自分に残してくれた唯一の青い更紗とともに董哉は旅立ち、代わりに大切にしていた懐中時計をグレイスに託した。
自分の魂を乗せて切望していた自由な世界へ羽ばたくために。
グレイスはそっと起き出してカーテンを開けた。
月明かりがサァッと床一面を銀色に濡らし、懐中時計がその輝きを増しながらゆっくりと秒針を進ませている。
ーートウヤ、あなたは今、どこの空を翔けているの……?
夢に現れる董哉は晴れやかな表情だが、時折みせる切なげな瞳にグレイスの恋しさは募るばかりであった。
冴えざえとした月光はグレイスの揺れる想いを鮮やかに、そして切なく照らし出してゆく。
楽団がひと所に滞在するのはだいたい二週間ほどであった。
その間に招かれれば数カ所でステージを行うこともあり、楽団員の舞踊や演奏はどこに行っても好評であった。
中でもやはりグレイスの踊りと歌声は特別で、その類い稀な美貌も加わって結婚を迫る者は後を絶たない。
拾ってくれた楽団への恩義もあるグレイスはあまたの求婚を受け入れるわけはなかったが、旅から旅への根無草のような人生を変えたいという思いがないわけではない。
以前のグレイスならここならばと思う土地ならば、求婚の申し出を受けようと思うことも正直あった。
今となってはね、とグレイスは小さく笑う。
グレイスの心にある董哉への揺るぎない想い。
自由を愛し欲して、でも手に入れることができないまま若くして人生の幕を閉じた董哉に、グレイスは憐れみと愛しさを感じずにはいられないのだ。
自分が生きている限り董哉の魂はともにあり、その旅は続いてゆく。
鏡に映る自分の後ろに董哉のはにかんだような笑顔をみたような気がして、グレイスは思わず微笑んだ。
「グレイス、起きているか?」
ドアがノックされサリヤが顔を出した。
長の妹で自身も人気の踊り子であったが病を経て、今は楽団員の世話係として信頼厚いサリヤの変わらない笑顔はいつもグレイスを安心させる。
「今夜一つステージが入ったから支度をしておいてくれ」
「今夜?
ずいぶん急な話ね。
明日にはここを離れるっていうのに」
グレイスの言葉にサリヤも肩をすくめた。
「先日ステージを行った屋敷の主に明日出立すると言ったら、どうしても友人に我々のステージを見せたいと」
一昨日出向いた屋敷で自分の歌声に感涙していた、美しい女主人の顔をグレイスは思い浮かべた。
「ロンヴィッド家はこの辺りではかなり古い名家らしいから、長も断れなかったようだね。
まぁ、謝礼に目が眩んだんだろうけど」
衣装などを取り出すためにもう一度荷解きをしなければならない憂鬱さで息を漏らしながら、サリヤはやれやれと部屋を出て行った。
ようやく荷造りが終わってホッとしていたのにと、グレイスもため息をつきながらトランクに手を伸ばす。
ーーそれにしても急な依頼ね……。
涙を流しながら自分の歌声に聴き入っていたロンヴィッド家の女主人は、たしか二十代前半だと聞いていた。
母親はとうに亡くなり、当主だった父親が急死したため一人娘が家を継いだのだという。
吸い込まれるような青い瞳が美しい女主人はどこか儚げだとグレイスは思った。
楽団のステージに感動して流す涙には、それとは違う何かが込められているようにも思えた。
再び会う機会を得た今夜、それが何かわかるかもしれない。
グレイスはそう思いトランクの中から衣装を取り出し始めた。
大河のほとりに建つ大邸宅がロンヴィッド家である。
河に流れる清流によってもたらされる豊穣の恵みはこのロンヴィッド家によって街の人々に渡されており、それゆえ人々からの信頼も厚い昔から続く歴史ある名家であった。
だからこそ当主の急死の際の人々の嘆きは深く、新しく家を継いだ一人娘ジェシカをなんとか盛り立てようと皆が必死に支えている。
貴族や富裕層にありがちな傲慢さが微塵もないジェシカは皆にとって守らねばならない、まさに姫君のような大切な存在なのだろう。
どこへ行ってもジェシカやロンヴィッド家を悪く言う者はおらず、むしろ感謝を口にする者ばかりであった。
「急な呼び出しにもかかわらずよく来てくれたね、ささ、こちらへ」
出迎えた執事が申し訳なさそうにグレイスたちを控えの間に案内する。
「ミス・ロンヴィッドのご友人がおいでと伺っておりますが」
長は楽団員に準備を始めるよう目配せをしながら執事に言った。
「ミラ様はジェシカ様の大切なご友人なのだが、先日のステージにおいでになることができなかったのです。
でもこの楽団のステージをそれは楽しみにしていらしたから、ジェシカ様はどうしてもミラ様にお見せしたいと……。
明日には出立するというのに無理を言って申し訳ない」
「いいえ、かまいませんよ。
我々の舞台をそんなにも楽しみにしていただけているのでしたら、こんなに嬉しいことはありませんからね」
ほくほく顔の長をチラリと横目で見て、グレイスはサリヤと視線を合わせて小さく肩をすくめた。
おそらく謝礼をたんまりと受け取ったに違いない。
まったく金のことになると見境なくなるんだからと、グレイスは少しいまいましい気持ちでふうっと息をついた。
「ようこそ来てくださいましたわね」
澄んだ声に振り返るとそこには白いドレスを着て微笑みを浮かべているジェシカの姿があった。
ドレスの衣擦れの音がするたびに甘やかな香りが室内に広がってゆく。
「無理を聞いていただいて嬉しいわ。
本当にありがとう」
ジェシカは楽団員一人一人に礼を述べ、グレイスの前に立つと、
「あなたの歌声をまた聴けるなんてこんな幸せなことはないわ。
天使の歌声ってあなたのような声をいうのね。
きっとミラも喜んでくれる……」
そう言ったジェシカの瞳は限りなく優しかったが、どことなく寂しそうに見えた。
「大切なご友人でいらっしゃるのですね」
ジェシカにとってミラという女性は相当大切な友人なのだろうと察したグレイスの言葉に、ジェシカはハッとした表情をこわばらせぎこちない笑みを浮かべた。
「ええ。
とても大切な人なのよ」
そこへ執事が慌ただしく入ってきて何やらジェシカに耳打ちすると、ジェシカの口からため息が漏れた。
「皆さん、申し訳ありませんがお客様の到着が少し遅れるそうですわ。
今お茶を用意しますから少しの間お寛ぎくださいね」
楽団員たちは用意されたお茶やお菓子などをつまみながらミラの到着を待つことになった。
お茶を飲もうとしたグレイスに執事がそっと近づいて、
「ジェシカ様がグレイス様にお話したいことがあると奥のお部屋でお待ちになっておられます」
何のことかさっぱりわからないまま、グレイスは言われた通り執事のあとをついてジェシカの待つ部屋へと向かった。
奥の部屋はジェシカの自室だろうか、広く豪華な部屋にもかかわらずどこか寒々しい気がした。
部屋に入るとジェシカは真紅の大きな椅子に身体を沈めるように座っており、瞳は苦しげに閉じられていた。
グレイスの姿を見てホッとしたような笑みをこぼしたジェシカは、執事にお茶を運ばせてミラが到着するまではここに誰も寄せ付けないように言いつけた。
「ごめんなさいね、急にお呼びたてしてしまって」
いいえ、と微笑みながらグレイスは言い、ティーカップを持ち上げた。
カップから花のような香りの湯気が漂い、ほのかに甘いお茶が胸を熱く滑り降りてゆく。
「無理を言って来ていただいているのに、お待たせしてごめんなさいね」
ジェシカはすまなさそうにグレイスに向き合った。
グレイスはこのときジェシカをまじまじと見て、なんて美しい人なのだろう思った。
流れる金色の髪が艶やかに光り、透けるように白い肌に桜色に染まる頬が愛らしくもあり、少女のような、それでいて艶めかしさも感じられる不思議な魅力がジェシカにはあった。
父親の急死で家を継いだ若き女当主。
父親が存命ならばきっと今頃は結婚していたかもしれず、実際ジェシカに求婚する者は数多くいたらしい。
しかし当主となった今、結婚相手はさらに慎重に選ばなければならないと執事が言っていたのをグレイスは思い出した。
ゆっくりとティーカップをテーブルに置いたジェシカは、時計を見やりながら小さく息をつく。
ミラの到着が待ち遠しくてならないといった様子のジェシカに、
「大切なご友人なんですね」
「……そう、とても大切な人なのよ」
先ほどと同じ答えが返ってきて、ジェシカはふっと笑みをこぼした。
哀しみを湛えた、どこかあきらめたような笑み。
「お母様が亡くなってここに来たのは私が10歳のときだったわ。
私はお父様の本妻の娘ではなかったから、引き取られたときはこちらにいたお義母様があまりいいお気持ちでなかったみたいでね」
暗い幼い頃の思い出が蘇ってきたのかジェシカの眉根が曇った。
義母とは打ち解けられぬままその後死別したジェシカだったが、大人たちの心ない仕打ちによって幼心に負った傷は深く、その痛みから未だにどくどくと濁った血を流しているように見受けられた。
「ミラは私の幼なじみでここに来たときからずっと一緒にいたわ。
悲しいときも寂しいときもミラはいつもそばにいて私を励ましてくれた。
ミラの笑顔があれば私は何もいらなかったわ。
お父様から見向きもされなくてもお義母様から辛くあたられても、ミラと一緒にいれたらそれでよかった。
ミラは私の光りだった。
今も、この先もずっと……。
このままずっとミラと一緒にいられたらとどれほど願ったか……。
でも、そうはいかなかった……」
ジェシカはますます眉根をひゅっと寄せながら苦しげに言葉を続ける。
「ミラは結婚して明後日にはこの土地を離れるの」
ジェシカは目を伏せて呟き、唇をキュッときつく結んだ。
美しい横顔がゆっくりと歪み、今にも泣き出さんばかりの表情のジェシカの瞳が次第に潤み始めた。
「ミラ様はご結婚なさるのですね」
グレイスは静かに言い、ジェシカはゆっくりと頷く。
「ミラも名家の生まれだからそれなりに格式のある家に嫁がなければならないことは、ミラも私もわかっていたわ。
でも実際に嫁ぐことが決まって、嫁ぐ先が想像よりもはるかに遠い土地だったことに私は動揺してしまったの。
たぶん、もう会えないと思うから……」
女は嫁いだらその土地に馴染み、子を産み育て年老いてその土地の土に還る。
故郷を遠く離れてしまえばどんなに熱望しても戻ることは不可能に近いのだ。
「明後日ミラが旅立ってしまったら、私たちはもう二度と会うことはないわ。
私の光り、愛しいひと……」
そう呟いたジェシカの頬を涙がすうっと滑り降り、その途端ハッとしたようにジェシカはグレイスを凝視した。
涙に濡れた、何かに怯えるような瞳。
ーーあぁ、このひとはミラ様を……。
グレイスはジェシカがミラに向ける愛情が幼なじみに向けるにしてはあまりにも深く、激しいものに感じていた。
ミラを語る口調は熱を帯び、ミラの名前を口にするたびにこの上なく幸せそうな微笑みを浮かべるジェシカ。
ミラの訪れを何度も時計を見ては今か今かと待ち侘びるその姿は、恋する女の姿の何ものでもなかった。
「私を、軽蔑する……?」
「軽蔑?なぜ?」
ジェシカは唇を引き締めて少し視線を落としながら、
「私がミラを……。
ミラを愛していることを」
きっぱりと言いきったジェシカの瞳にはもう涙はなく、代わりに揺るぎないミラへの愛が強い光となって揺らめいていた。
「いいえ。
何を軽蔑することがあるでしょう。
あなたは愛する人をただ愛していると仰っただけではありませんか」
「でも……女性だわ。
私がただ一人、心から愛しているのは、同じ女性だわ」
「それが、何か?」
不思議そうに自分をみつめるグレイスをジェシカは信じられないように目を瞬かせた。
いつからかミラを恋の対象としてみるようになっていた。
大切な幼なじみ、大切な友人。
ミラと過ごすたびにその枠から飛び出してしまうほどの愛情に、ジェシカはどうしたらいいのか戸惑いを隠せなかった。
いつも一緒に笑い合っていたい、同じ時を過ごしていたい。
ミラのやわらかな金色の髪に触れ、すべらかな薔薇色の頬にキスをしていたい……。
そんなことを思う自分はどうかしているのだろうかと、ジェシカは夜も眠れなくなるほどだった。
そのうちにミラは結婚しこの土地を離れることになり、もう会えなくなることへの絶望がジェシカの心に嵐を吹き起こして今に至っている。
「愛する人を愛しているということが悪いことなの?」
「……私、間違っていないかしら……。
私の想いは貫いてもいいものなのかしら」
「人を愛するのに、間違いなんてないわ」
静寂に包まれた部屋にグレイスの凛とした声が響き、ジェシカは今まで堪えていた不安や悲しみ、戸惑いといった全ての感情が堰を切ったように溢れ出て涙にくれた。
それはやがて嗚咽になり、ミラへの想いにジェシカはただ泣き続けた。
グレイスはジェシカの背中をそっとさすり、しばらくすると泣き声は小さくなっていった。
「あなたは世界中を旅しているんでしょう?
世界にはどんな愛の形も受け入れられる、誰もが堂々と愛を語り合える、そんな国があるのかしら」
ジェシカは机に置かれた小さな地球儀をくるりと指で回しながら言った。
「世界は広いわ。
きっとどこかにあるはずね。
シャングリラのような、そんな国が」
ジェシカはふふふっと笑い、グレイスに抱きついた。
「ありがとう……。
ずっと罪悪感に苛まれてきて、私、今夜やっと解放されたんだわ。
私、もう心を偽らなくてもいいのよね。
ありがとう……。
ありがとう……」
ジェシカの穏やかな笑顔にグレイスも微笑みながら抱擁を受け止めた。
「もうすぐミラが来る頃だわ。
グレイス、あなたにお願いがあるの。
聞いていただけるかしら」
「喜んで」
グレイスの快諾にジェシカは嬉しそうに、しかしきっぱりとした口調で、
「愛の歌を歌ってほしいの」
「愛の歌?」
「私の想いをミラは知らないまま旅立ってしまう。
私の想いを愛の歌に込めて、あなたの歌声でミラに伝えてほしいの。
私の愛する人に、ありったけの愛を込めた愛の歌を」
堂々と愛を伝えることができないことが卑怯な気もしてもどかしく、それでもほんの糸一筋の想いでもいい、心から愛する人に伝えたいというジェシカの切なる想いがグレイスの心に響いた。
もう二度と会えない、私の愛する人。
青の更紗を纏いヨコハマの港から次第に小さくなってゆく董哉の姿が、グレイスの眼裏に閃光のように浮かび上がった。
ーートウヤ……!
『歌って、グレイス。
決して消えることのない愛の歌を……』
ポケットの中でカチコチと時を刻む懐中時計にそっと触れると、董哉の優しいやわらかな声が聞こえてくるようだった。
「あなたの想い、きっと伝わるわ」
グレイスがそう言ってジェシカを優しく抱きしめたとき、俄かに表が慌しくなった。
待ちかねたように部屋を飛び出してゆくジェシカのあとをグレイスも慌てて追いかけた。
もつれるような足取りで階段を降りたジェシカは途端に立ち止まる。
ジェシカの背中が異様なほど緊張を帯びていてグレイスは何事かと玄関に目を向けると、そこには一組の男女が執事とにこやかに挨拶を交わしているところであった。
「ジェシカ!」
ミラは薄ピンク色のドレスを翻してジェシカへ走り寄り抱きついた。
「ごめんなさい、遅くなってしまって」
申し訳なさそうにミラは言い、後ろに立っている背の高い男をジェシカに紹介した。
「ジェシカ、紹介するわ。
こちらは私の婚約者のダニエル。
「初めまして、ジェシカ。
ミラからあなたのお話はよく伺っています。
初めてお会いするけれど初めてではないような、なんだか不思議な気持ちです」
ダニエルは軽く一礼しながら人の良さそうな笑顔を浮かべた。
「初めまして。
お会いできて嬉しいわ」
ぎこちなく微笑むジェシカの心の中を慮るとグレイスはいたたまれなくなった。
愛するミラと過ごすおそらく最後の夜。
時間の許す限り二人だけで過ごし、最後の思い出を作ろうと思っていたはずではなかったか。
「ダニエルのお仕事の都合でこちらへ寄ることになって、明後日に出立の予定だったけれど急遽明日発つことになったの」
「明日……?」
「急の出立だから慌ただしくなりますが、ミラと二人そのまま新居にも入れますしね。
ちょうどよい折かと思いまして」
ダニエルとミラは微笑みを浮かべながら見つめ合った。
二人の世界はまさに薔薇色で、ジェシカの入り込む隙など髪の毛ひと筋もない。
幸せに満ちた二人を前に死ぬばかりミラを恋慕うジェシカにとって、愛しいミラを前にしてこの時間は拷問のような時間であった。
「そう。
それならばなおさら今夜お招きできてよかったわ。
あなた方の幸せな前途への餞を贈ることができるのですものね」
そう言ったジェシカは明るい声音とは裏腹に、ぞっとするほど寂しい表情を見せているのであった。
ジェシカの複雑な心境を思っていても、一度ステージに上がれば最高のものを表現したいとグレイスは力の限り歌い踊る。
数え切れないほどステージに上がっていたとしても、その瞬間までグレイスを覆う緊張感にはいつまでも慣れることはない。
緊張をほぐしてくれる母に繋がる唯一のあの青の更紗は今はもう手元にはない。
青の更紗の代わりに今グレイスの手の中にあって張り詰めた緊張感から救ってくれるのは、董哉の魂が込められたあの懐中時計に他ならない。
カチコチという秒針の音がグレイスの逸る鼓動を落ち着かせてくれる。
『大丈夫、君はいつも通りでいいんだよ、グレイス』
董哉の静かな声が秒針の音に乗って耳に届くようであった。
「グレイス、時間だ。
準備はいいか?」
サリヤがそっと声を掛け、グレイスは鏡の中の自分に小さく頷いて舞台へと向かう。
グレイスの流れるような美しい踊りはミラとダニエルの心を一瞬にして掴んだようで、二人は食い入るようにグレイスの踊りをみつめていた。
小さな楽団といってもグレイスを始めとする楽団員たちの実力はかなりのもので、少しずつではあるがその名前も知られてくるようになっていた。
楽団員の奏でる楽の音が室内に響き、軽やかに音に乗り優雅に舞うグレイスの輝きに、誰もが魅力されずにはいられない。
「なんて素晴らしいの!
こんなにしなやかで力強い踊りは初めてよ!」
嬉しそうにはしゃぐミラの姿にジェシカの心は言いようのない喜びに満たされていた。
ミラの喜ぶ姿を見ることはジェシカにとって何よりも幸せなことであった。
遠くへ行ってしまう大切な人に贈りたいもの。
堂々と伝えることができない長い間秘めた想いを、ジェシカはどうしてもこの夜に伝えたかった。
直接伝えないことが卑怯だとも思ったが、今の自分にはその勇気はない。
しかしジェシカにはもう時間がないのだ。
明日にはミラはダニエルとともにこの土地を離れてゆく。
ーーミラ、私は、あなたを……。
楽しそうにダニエルと笑うミラに切なげな視線をもはや隠すことができずにいるジェシカをチラリと見たグレイスは、
「ジェシカ様からミラ様へ贈りものがあるのです」
「まあ、ジェシカが私に?」
ミラは目を輝かせながらジェシカを振り返った。
「ミラ……。
私は、あなたを……」
自分へ無条件に向けられるミラの邪気のない親愛の視線をまっすぐに受けたジェシカは、ミラの後ろに佇むダニエルの姿に次の言葉を飲み込んだ。
ダニエルとミラは政略結婚という形でありながらも、たしかな愛の形を作り上げようとしている。
決められた結婚であっても幸せは自分たちで作り上げてゆくものだという強い想いが、この二人からひしひしと伝わってくるのをジェシカは感じていた。
ーーミラは旅立って、私は一人取り残されるのね……。
ジェシカはふふふっと笑った。
「ジェシカ?」
急に笑い出したジェシカを訝しく思ったのか、ミラは少し眉をひそめた。
「愛しているわ。
これからもずっと、あなたを愛してる」
ジェシカの凛とした声にミラへの揺るぎない想いが溢れてゆく。
「ジェシカ……」
幼い頃からずっと一緒に過ごした大切な親友を残して遠い土地へと行かねばならないことに、ミラも心を痛めていないわけではなかった。
強がっていてもその実繊細すぎるほど心優しいジェシカ。
「ダニエルと幸せな人生を」
ジェシカはそっとミラを抱きしめてそのやわらかな髪に頬を埋める。
甘い香りがジェシカを包み、このまま時が止まればいいのにと思った。
胸が張り裂けそうな心を奮い立たせるように、
「グレイス、ミラへ届けてくれる?
私の愛の歌を」
グレイスは微笑みを浮かべながら楽団員たちを振り返る。
荘厳なメロディーが静かに流れ出し、グレイスはありったけの想いを込めて歌い始めた。
大河の流れはゆるやかにして
私の想いとともに
あなたへたどり着くでしょう
あなたのすべては光となり
静かに私を照らし出す
私の心はあなたへの愛で乾くことはない
やがて私の夜は明けてゆき
私は歩き始める……
グレイスの歌声はその場にいたすべての人の心を揺り動かすような、慈愛に満ちた力強いものであった。
叶うことのない想いを抱くジェシカがグレイス自身に重なり、グレイスの歌声がさらに熱を帯びてゆく。
ーートウヤ……トウヤ……!
二度と会えない大切な人へ。
グレイスの魂の歌声はジェシカとミラを救い、そして天翔ける董哉にも届いたに違いない。
名残惜しそうにミラがダニエルと帰ってしまうと、ジェシカはしばらく椅子に身を埋めるようにして動かなかった。
グレイスたち楽団員も片付けを終え長とサリヤが執事と話をしている間、グレイスはジェシカの様子を見に再び大広間へ戻った。
苦悶に満ちた表情でいるのではと思いながら部屋に入ったが、室内にジェシカの姿はない。
厚いカーテンが風にゆっくりとなびいているのを見て、グレイスはバルコニーへ向かった。
月明かりに濡れているバルコニーに佇み、ミラが去った方角をみつめているジェシカの後ろ姿がとても力強いものに見えた。
聞こえてくる河の流れがジェシカの心を癒し慰めているのだろうか、月明かりに照らされるジェシカの横顔はため息が出るほどに美しく穏やかであった。
「あなた方も発ちますか」
ジェシカはゆっくりと振り向いた。
「もう二度とミラと会えなくても、私のミラへの想いは変わらないわ。
あなたの歌声が私に心を決めさせてくれた。
私は私の想いに正直でいていいのだと、私はこのままの私で生きていいのだと」
ジェシカはグレイスの手をそっと握りしめてじっと瞳をみつめた。
「ありがとう。
あなたの歌声、決して忘れないわ」
ジェシカはそう言ってグレイスを優しく抱きしめた。
玄関まで見送りに出てきたジェシカはグレイスの耳元で、
「あなたの想いも、きっと愛する人に伝わったと思うわ」
と囁いて微笑んだ。
日々深くなってゆくグレイスの董哉への想いにジェシカは気がついていた。
グレイスが驚いたようにジェシカを見るといたずらっぽい笑顔で小さく手を振って屋敷の中へと消えて行った。
船は大河の流れに乗り軽快に出発した。
空に昇る太陽の光が薄闇を照らし始めると、遠くにジェシカの屋敷が小さくなって見えた。
これからジェシカはどのように生きてゆくのだろう。
きっとミラへの想いを支えにあの土地で生きてゆくのだろう。
バルコニーに佇むジェシカの力強い後ろ姿にそんな決意を感じ取ったグレイスは、その強さが羨ましいと思った。
しかしグレイスもまた自分の中にも同じ強さが生まれていることを知っている。
たった数日間であったとしてもあれほど心を奪われてしまった董哉との出会いは、グレイスの生きる希望になっているのだ。
ポケットから金の懐中時計を取り出して耳にあててみる。
カチコチという優しい音がグレイスをどんな時も癒してくれる。
ジェシカにとっての大河の流れのように。
「さぁ、トウヤ。
次はどこへ向かうのかしら」
太陽が勢いよく飛沫を上げる水面を煌めかせグレイスは目を細めた。
「どこへ行こうとも、あなたはいつも私と一緒にいてくれるわね」
微笑みながら呟いたグレイスの手の中で、懐中時計は変わらずに穏やかな時を刻み続けていた。
完
『青い更紗と金時計シリーズ』ということで、グレイスと董哉の旅の物語を続けていくことにしました(*´∀`*)
今後ともグレイスと董哉の人生の旅にお付き合いいただけたら嬉しいです✨
最後まで読んでくださりありがとうございます
(*´꒳`*)