まーたる、ショートストーリーを書いてみた第11弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´∀`*)
「 恋 」
ひかりはそっと店の壁にかかる大きな時計を見た。
人々が忙しく行き交う駅の構内にあるコーヒーだけを提供するこの小さなカフェも、あと一時間もすれば帰宅前に一息入れようとする人の波が押し寄せる。
今は嵐の前の静かなひと時といったところで、店内にいる客も心なしかゆったりとして見える。
このカフェで働くようになって3か月、ようやく仕事にも慣れてきたひかりは、さして忙しくないこの時間帯に訪れる客の観察をするのが日課になっていた。
人間観察は駆け出しのイラストレーターでもあるひかりの癖でもある。
イラストレーターとしてだけではまだまだ生活が成り立たなく、ひかりは大好きなコーヒーがそばにある仕事をと、このカフェで働くようになった。
ーーあの人、眼鏡のフレームもう少し細い方が似合うのになぁ。
ーーあの人素敵!アッシュグレイの髪の色がすごく似合う……!
いつものように繰り広げられるひそやかなそのひと時は、突然訪れた嵐によって破られることになった。
入り口に現れたスーツ姿の男がカウンターの前に立つ。
「いらっしゃいませ」
反射的に営業用スマイルを浮かべたひかりは、目の前でネクタイにかかるそのスラリとした長い指に釘付けになった。
長い指はネクタイを無造作に緩め、そしてカウンターの上のメニューを指差す。
ーー綺麗……。
思わず見入ってしまったひかりの頭上から、男の低い声が静かに降りかかった。
「コーヒー、ブレンドで」
「あっ……。はい、ブレンドですね」
顔を上げたひかりは男の切れ長の瞳が面白そうに笑っているように見え、ばつが悪い思いで慌ててコーヒーをカップに注いだ。
「ありがとう」
会計を済ませコーヒーカップの乗ったトレイを片手に、コンコースが見える窓際に座る。
カウンターの中のひかりから一番よく見える座席だ。
わけもなく胸が高鳴ったのはいったいどうしたことだろうと、ひかりは自分を訝しく思った。
人間観察に没頭しすぎたところに急に現れたから驚いただけだ、きっとそうだとひかりは少し安堵の息をつく。
ーー仕事中なんだからしっかりしなくちゃ!
チラリと窓際の座席を見ると男がコーヒーを飲みながらインテリア雑誌を読んでいる。
見た感じ二十代のサラリーマンのようだ。
ページをめくる指が美しくて、ひかりはそこから目が離せないでいる。
「小鳥遊さん、混んできたわよ」
一緒にシフトに入っているスタッフの声に、ひかりは現実の世界に引き戻される。
大挙して押し寄せる客の波を交わすように、男の姿はいつの間にか消えていた。
あれからスーツ姿の男は水曜日の同じ時間帯に現れては、ブレンドコーヒーを一杯飲み、嵐の時間帯が訪れる前に店を出て行く。
どこかの会社に勤めるサラリーマンのようでもあるし、最近ではそうでない雰囲気を感じてもいるひかりであった。
ひそやかな人間観察は相変わらずであったが、このところのひかりは水曜日に休みを入れなくなった。
あのスーツ姿の男のせいだとは思いたくないが、ただどうしてだろう、水曜日に約束事を入れないようになったのだ。
水曜日、16時15分着の電車はあと5分でこの駅に滑り込む。
壁の時計を見てひかりは思わず入り口を振り返った。
行き交う人々はみな足早に店の前を通り過ぎてゆく。
人の波の中に今や見慣れた姿を目にすれば、心が意思とは裏腹に揺らめくこの感情を、ひかりは自分自身のことであるにもかかわらず理解することができずにいた。
「こんにちは」
男がにこやかに話しかける。
毎週水曜日にこの店で会ううちに、二人は挨拶を交わすようになっていた。
「いらっしゃいませ。こんにちは」
しだいに高まっていく鼓動を悟られないように、ひかりはつとめて冷静に営業用の笑顔を男に向ける。
「コーヒー、ブレンドでね」
いつもの注文をし、いつもの席でコーヒーを飲みながらインテリア雑貨を読む。
そしてその姿をさりげなくみつめるひかりの姿もいつも通りだった。
思いもよらないことが起こったのは、嵐の時間帯がもうすぐ近づき、ひかりのため息が深くなる頃であった。
「ごちそうさま」
カップの乗ったトレイをカウンターに置き、男は笑顔で言ったあと持っていた雑誌をひかりに差し出した。
男はきょとんとしているひかりを面白そうにみつめながら、
「よくこっちを見てたから、インテリアに興味あるのかなと思って」
返すのは来週でいいよ、と再び笑って男が店を出ると、入れ替わるように人の波がカフェの方へ押し寄せてくるのが見えた。
ひかりはもう一時間近くページをめくることなく、星のモチーフのランプが表紙のインテリア雑貨をみつめていた。
こっそりと盗み見ていたことを知られていたのが恥ずかしかったが、でもこうして雑誌を貸してくれるまでになったことは素直に嬉しかった。
やがてひかりはページをめくりながら、男が触れたものに触れ、男が見ていたものと同じものを見ているという喜びが、ゆっくりと足元から湧き上がるのを感じた。
海外の美しい芸術品が溢れんばかりに掲載されている雑誌をめくりながら、ひかりは男のスラリと伸びた美しい指先を思い浮かべていた。
ーーなんだろう……私、どうして……?
毎週水曜日にしか会わない、勤務先のカフェに現れるただの客だというのに、なぜこんなにも心が乱されてしまうのかと、ひかりが忌々しい気持ちで荒々しくページをめくったときーー。
「あっ……」
一枚の名刺がひらりと落ちた。
『神澤 律』
名刺には聞いたことのあるインテリアデザイン会社の名前も記載されてあった。
「神澤、律……」
ひかりは呟き、これがあの男の名前だろうかと思った。
ーー綺麗な名前……。
細く伸びたあの指先のように綺麗な名前だと思った。
でもどうしてこの名刺が雑誌に挟んであったのだろう。
まさか自分に向けてわざと挟ませておいたのだろうか。
ーーまさか、そんなはずない。
ただのカフェの店員と客の間柄なのだ。
しかも週に一度、短時間しか会わない店員と客というだけの繋がりだ。
大方、栞代わりに挟んでそのままにしておいただけかもしれない。
ーーでも……。
ひかりは名刺の名前をそっとなぞる。
神澤律という名前がひかりの中にくっきりと刻まれてそらすことができないまま、夜がひかりの横を静かに通り過ぎてゆくのだった。
神澤律は来なかった。
水曜日、いつもの時間、いつもの席はいつもの客が来るのを待ち望んでいるように寂しげに見えた。
平静を装いながらも気がそぞろだったひかりは、いつもならしないようなヘマをしたりしてスタッフに体調でも悪いのかと心配された。
すみません、大丈夫ですとぎこちなく笑みを浮かべ、なんとか勤務を終えて帰途に着いた。
バッグには今日返すはずだった神澤律の雑誌が入っている。
毎週水曜日の決まった時間に必ず現れていたのに、今日はどうして姿を見せなかったのだろう。
仕事が忙しくなったのか。
体調が悪くなってしまったのか。
……忘れてしまったのか。
心が千々に乱れながらコンコースを抜けて階段を上り地上へ出ると、夜はこれからとでも言うように人の波が賑やかに行き交っていた。
なんとなくこのまま帰る気にはなれない、でも行くあてもない。
どこでもいい、とりあえず歩こうとひかりが歩き出したとき、俄かに腕を掴まれて驚いて後ろを振り返った。
「神澤律……」
スーツ姿の神澤律の切れ長の瞳がひかりを捉え、もう目が離せなくなっていた。
腕を掴まれたまま歩き出し、やがて露地裏に入りようやく腕を離した神澤律はゆっくりとひかりと向き合った。
「待ってた?オレのこと」
「待ってなんか……」
壁に押し付けられるようになったひかりの顔に、神澤律の細く長い指先がそっと触れる。
「オレは待ってたよ。
今日は仕事してない君に会いたかったから、この時間をずっと待ってた」
「どうして……?」
神澤律に触れられている頬が燃えるように熱い。
ひかりはキュッと目をつむり、喘ぐように神澤律に訊ねた。
「名前」
「名前……?」
「……君の名前。
オレの名前だけ知ってるの、ズルいだろ?」
神澤律の低く声が面白そうに耳元で囁く。
ーーこんなことが……。
小説や映画の中だけだと思っていた出来事が今、こうして現実のものとなっていることがひかりには信じられない。
会って間もないカフェの店員と客。
ただそれだけのはずなのに。
いつからか目が神澤律の姿を探すようになっていた。
ーーこんなことって、こんなに急なことって……。
神澤律のぬくもりが近づいてくる。
「君の名前、教えて?」
神澤律の言葉が優しく艶やかな魔法のように耳に響き、ひかりはまるで心地良い痺れの中に身を委ねるように、
「ひかり……」
「ひかり」
神澤律に名前を呼ばれた途端、ひかりは落ちてゆくと感じた。
ーー落ちてゆく、このひとに……。
神澤律の指先が滑るようにひかりの唇に触れ思わず顔を上げると、神澤律の瞳の奥深くに吸い込まれそうな気がしてひかりは小さく息をのんだ。
その瞳は限りなく優しくひかりを包みこみ、外灯のあかりが一つになったシルエットを静かに熱く照らすのだった。
完
米津さんの新しいアルバム『STRAY SHEEP』に収録されている、RADWIMPSの野田洋次郎さんとのコラボ曲『PLACEBO+野田洋次郎』を聴いていて、ふっと降りてきた物語です。
『恋に落ちる瞬間』を書いてみたいと思いました。
恋に落ちる瞬間ーー。
いつの間にか、甘い罠に落ちている。
たとえ出会ってすぐにでも、恋に落ちる瞬間はやってくる。
少し大人な物語を書いてみました。
皆さんの『恋に落ちる瞬間』は、どんなときに訪れますか?
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)