まーたる、ショートストーリーを書いてみた第六弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´∀`*)
『ミッドナイトカフェ・WHEEL of FORTUNEへようこそ』
episode6 「サルマ」
ーーあんなことするつもりじゃなかったんだ……!
真夏は心の中で言い訳じみた言葉を何度も繰り返しながら足早に街を歩いていた。
ネオンの光がまるで洪水のように溢れて、夜の帳が降りても眠ることのないこの街を、普段嫌悪する真夏なのだったが、今はその喧騒さえもありがたいものに思えた。
ーーこの雑踏に紛れて、いっそ消えてしまえたら……。
真夏はそう思いながら今は一刻も早く家に戻りたいと思った。
この汗ばんだスーツを脱ぎ捨て、早くシャワーを浴びて全てを流してしまいたい。
今日の出来事の全てを。
「真夏!」
突如耳に飛び込んできた声に真夏はビクッと身体を固くして、その声から逃れるように狭い路地へ滑り込んだ。
「真夏!」
声の主は真夏に気がつくことなく慌ただしく通り過ぎて行くのを、真夏は深い息をつきながら見送った。
路地裏にへたり込んだ真夏が空を見上げると、かすかな星の光が見えた。
夜空にひしめく星の光さえも叶わない、この街の煌々しさがなんだかおもしろく思えて真夏は少し笑った。
今頃、南朋はどこを探しているんだろう。
探す?オレを?
……なぜ?
真夏はふと上げた視線の先に、オレンジ色の灯りが暗闇にぽっかりと浮かんでいるのを見つけた。
路地裏にひっそりとまるで隠れ家のような佇まいのその店は、看板のコーヒーカップの絵からして喫茶店のようだった。
時計の針は11時を指している。
こんな遅くまで開いてるんだろうかと近づくと、コーヒーカップの横にワイングラスの絵も描かれてあり、じゃあここは夜になるとバーに変わる店なのかと真夏は思った。
コーヒーを飲む気にはなれないが、少しアルコールを入れて帰ろうとその店の古めかしいドアノブに手をかけた。
ついさっきの出来事をすっかり忘れてしまいたいと心から思いながら。
カラン、という軽やかな鐘のような音がして中に入ると店内には客の姿はなく、コーヒーの香ばしい香りがふわっと真夏を包み込むように漂ってきた。
オレンジ色の明かりがあたたかく、ボリュウムを絞って流れるヴァイオリンの音色が心地良く耳に届いてくる。
「いらっしゃいませ」
カウンターの中の女が静かに微笑みながらゆっくりと振り返った。
切れ長の瞳が涼やかでショートヘアの耳もとにキラリと光るピアスが揺れている。
折れそうなくらい華奢な身体なのにしなやかな強さも垣間見えて、
ーーまるでロシアンブルーみたいだな……。
高貴で優雅な雰囲気は猫のロシアンブルーのようだと真夏は思った。
猫好きな真夏は人を見るとき、つい猫に置き換えて見る癖がある。
「猫に重ねて人間観察なんて、おまえおもしろいな」
突然目の前に南朋の笑顔が浮かび、真夏の鼓動が一気に跳ね上がった。
「どうぞお好きなお席へ」
オーナーに促され、真夏はなぜか吸い寄せられるように大きな額が目の前に見えるカウンター席に座った。
奥の座席でも良かったのにと思ったが、今更席を移動するのもなんだか気が引けて目の前に置かれた熱いおしぼりで手を拭った。
額の中には大きな輪が色鮮やかに描かれていて、今にもゆっくりと動きそうな気がした。
アルコールを飲もうと思っていた真夏だったが、香ばしい香りに触発されてついコーヒーを注文してしまった。
気分じゃないけどと思いながら、真夏はテーブルに置かれたコーヒーカップを持ち上げた。
美しいエメラルドグリーンのカップは、ロシアンブルーの瞳そのもので、真夏は思わずオーナーの顔をみつめた。
当然エメラルドグリーンの瞳ではなく、真夏にみつめられて涼やかな目元がほどけるように微笑んだ。
「どうぞ」
焼き菓子の乗った銀の小皿を差し出しながら、
「私の顔に何かついてますか?」
「あ、いえ、別に何も……」
真夏はしどろもどろに言ったが観念したように、
「すみません。オレ猫好きで、人間観察するとき、つい猫に重ねて見てしまう癖があるんです。
それであなたがあまりにもロシアンブルーにしっくりきたものだから……」
「ロシアンブルー?」
「とても優雅な猫なんです。
すごくしなやかで、瞳のエメラルドグリーンが美しくて。
そんなことを考えていたら出されたコーヒーカップがエメラルドグリーンのカップだったから、なんてシンクロなんだろうって」
「そんな優雅で美しい猫に重ねていただいて嬉しいわ。
それなら私の瞳もエメラルドグリーンなら良かったのだけれど、あいにく黒い瞳だわ。
ごめんなさいね」
オーナーはおもしろそうに笑いながら言った。
真夏は恥ずかしい気持ちを隠すようにコーヒーを飲み、焼き菓子を口に入れた。
ほろ苦いチョコレートの味が広がって、思考が再び南朋に支配されそうになるのを慌てて振り払おうと、
「ここ、夜になるとバーになるんですね。
すごい数の酒瓶だ」
目の前にずらりと並ぶ酒瓶を見て真夏は言った。
「ええ。静かにアルコールを召し上がりたい方にはここはうってつけの場所かもしれませんね」
たしかにどこか隠れ家的な雰囲気のこの店は、賑やかに酒を飲む場所ではない。
ゆったりとした時の流れを感じながら、じっくりと自分に向き合うのに最適な場所のように思えた。
そう、今の自分のように。
「……南朋」
「南朋?」
思わず南朋の名前を口に出してしまったことに赤面した真夏は、
「と、友達です!ただの!」
慌てふためく自分の目の前で静かに微笑んでいるオーナーを見て、真夏はなんとなく心の中で渦巻いているこの苦しい気持ちを吐き出してしまいたいような気がしてきた。
「大切な友達、なんです。
でももう、その関係も今夜で終わりました。
……自分から壊してしまったんです」
「壊してしまった?」
会社の飲み会が終わり二次会の席。
南朋の周りにはいつも女子社員たちが群がるように集まっている。
そう言うおまえもだろ?と南朋が笑うように、真夏も女子社員たちに囲まれていた。
「おまえ、オレよりモテんなよな」
からかうように笑う南朋をみつめながら、女子社員たちに曖昧な笑顔を向ける真夏は、その場にいることがだんだん苦痛になってきた。
アルコールの心地良い酔いの中で、女たちの南朋へのボディタッチが増え際どくなっていく。
それを嬉しそうに、でもサラリとかわす南朋にしだいに苛つきを感じ始めた真夏だった。
ーーやめろ、触るな……。
真夏はしだいに大きくなってゆく心の声を抑えきれる自信がなくなり、飲みすぎたから先に帰ると立ち上がった。
まだ早いと不満そうな女たちの中で、南朋は不思議と真顔で座っている。
他の社員にも声をかけて真夏は足早に店を出た。
女たちに囲まれて嬉しそうにしている南朋をこれ以上見ているのが辛かった。
自分もそうできたらどんなにかと、真夏が唇をかみしめたとき、
「真夏!」
「南朋……」
シャツのボタンを一つはずし、ネクタイを少し緩めて腕まくりしている南朋の姿が眩しすぎて、真夏は思わず目を背けた。
「どうした?
本当に飲み過ぎただけなのか?」
女たちに囲まれていたときとは別人のような真剣な南朋の表情から、真夏はもう目を離すことができなくなっていた。
真夏の様子を心配して追いかけてきた南朋に、真夏の心はぎゅうっと締め付けられるようにどんどん苦しくなっていく。
今はこれ以上一緒にいないほうがいい。
真夏の心が警告音を鳴らす。
ーーこれ以上一緒にいたら、オレは……!
「ちょっと飲み過ぎた。帰って寝るわ。
早く戻れよ、おまえがいないとみんな寂しがるぞ」
戯けるように言い、じゃあなと背中をむけようとした真夏の肩を南朋が押しとどめた。
「おまえ、なんかあったのか?」
いつになく真剣な眼差しの南朋に射竦められたとき、それまで抑え込んでいた真夏の理性は一瞬にして弾け飛んでしまった。
「様子がいつもと違うし、心配なんだ、おまえのこと」
ーーやめろ……。
「なんかあったら言えよ。
おまえはオレにとって大事な友達なんだから」
そう言ってハグをした南朋の爽やかなコロンの香りに真夏の思考は痺れていき、引き寄せられるように南朋の耳もとにそっと唇を寄せて囁いた。
「南朋……。オレはおまえをただの友達だなんて思ったこと、一度もないんだ……」
南朋の頬に微かに触れた唇が燃えるように熱くなってゆく。
呆然と立ち尽くす南朋の瞳に、今の自分はどう映っているのだろうかと真夏は思った。
同性を好きになってどうしようもできない恋心に苛まれている男。
女たちのように大っぴらに好意を表せないことへの苛立ちに耐えかねている男。
何よりも南朋に拒否されることを恐れて、せめて『友達』という立場でもそばにいたいと思うずるい男。
ずっと秘めていた想いを一言でも口に出してしまったら、もう止めることはできないのだ。
回り始めたら決して止まることのない車輪のように。
真夏は目の前の大きな絵画を見上げた。
大きな車輪のようなそれは、自分の心に潜む南朋への秘めた想いそのもののような気がした。
「この絵……。なんていうんですか?
すごく鮮やかな絵ですね。
今にも動き出しそうだ……」
オーナーは絵をじっとみつめながら、
「私が大好きなタロットカードで『運命の輪』というの」
「『運命の輪』?」
「未来へ向かう『運命の輪』……。
これは一人一人の心に必ずあって、他の誰も動かすことはできないの。
輪を回すことができるのは自分ただ一人なのよ」
絵をみつめるオーナーの瞳はどこか哀しそうに見えた。
未来へ向かうという『運命の輪』が南朋への叶わない想いに重なって見えたことに、真夏は不思議な運命を感じた気がした。
「オレ、森脇真夏って言います」
唐突にすみませんと言いながらオーナーを見ると、少しびっくりしたようだったが、
「凛子です」
よろしくと言って微笑んだ。
「凛子さん、オレ、好きなやつがいるんです。
同じ会社に勤めてる同期で、南朋っていうんです」
「南朋さん?」
真夏は意を決したように口を開く。
「南朋は、男なんです」
言ってしまった、と真夏は思った。
初めて来た店のオーナーなのに、なんでオレはこの人にこんなこと言ってるんだろう。
誰にも言ったことがない、今までずっとずっと心の奥底に、それこそ自分でさえ見つけ出すのが難しいほどのところにあるその想いを、どうして今、自分は口にしているのか。
顔を上げたらきっと奇異なものを見るような嘲りの視線があるに違いない。
真夏は後悔と不安が入り混じる気持ちを奮い立たせるように、思い切って顔を上げた。
「素敵ね」
そう言って微笑んでいる凛子を、今度は真夏がまるで信じられないという風にみつめた。
「好きな人がいることほど幸せなことはないわ。
どんな方なのかしら。
差し支えなければぜひ聞かせていただきたいわ」
凛子のやわらかな笑顔を前に、真夏なそれまで心の中にしまい込んでいた南朋への想いが溢れ出した。
仕事には手を抜かず全力で取り組む姿勢を尊敬していること、ユーモアがあって人を思いやる気持ちが深く南朋の周りにはいつも笑顔が溢れていること、何かあると自分のことをいつも気にかけてくれる優しさ、そして全てを包み込むようなやわらかな笑顔。
ーーああ、そうか……。
似てるんだ、と真夏は思った。
やわらかな笑顔も包み込むような優しい瞳も、この人と南朋は似ている……。
「オレのこと、変なやつって思わないんですか?
その……気持ちが悪いとか……」
「なぜ?」
「え……」
だってオレが好きなやつは男なんですよと言いかけて真夏は口をつぐんだ。
凛子が向ける真っ直ぐな瞳が眩しかった。
同性に恋をしている。
何度自問自答してみても、返ってくる返事はいつだって同じだった。
オレハナオヲアイシテル。
南朋への気持ちに気がついてからは、どうしたらいいのかわからないまま日々が過ぎていったが、しだいに仲の良い同期として、友達として振舞うことが苦しくなってきた。
南朋の口から出る女たちの話を聞くたびに耳を塞ぎたい気持ちでいっぱいだったが、理解ある友達という立場を死守したくて自分の心を押し殺した。
決して成就することはない、そう思って諦めようとすればするほど南朋への想いは募ってゆく。
そして抑えに抑えてきた想いを今夜ぶつけてしまったのだ。
ーーもう友達にさえ戻れない。
真夏の中にそれでいいのかもしれないと思う自分もいた。
もうこれ以上自分の気持ちに嘘をついたまま南朋のそばにいることは限界だったのだ。
ーーこれで良かったんだ……。
南朋に会ったらちょっとふざけたんだと謝ろう。
からかいたくなったんだと、そう言おう……。
「人を愛するのに性別なんて関係あるかしら」
やわらかな、でもきっぱりとした口調で凛子は言い、そんな凛子を真夏は瞬きもせずにみつめた。
「性別なんて、とるにたらないことだわ」
真夏の頬に一筋の涙がこぼれ落ちた。
凛子の力強い一言にそれまで真夏の心を支配していた罪悪感と、南朋への想いが同時に弾けたのを感じた。
「同性を好きになるなんて思わなかったんだ。
だけど南朋は、南朋だけは違って……。
自分はおかしいのかな、でも気持ちはどんどん南朋に向かっていって、誰にも言えなかった。
苦しくて諦めようとしても、やっぱりだめで……」
「あなたは同性を好きになったんじゃない。
南朋さんを好きになっただけ。
人を愛することは素晴らしいことよ。
誰にも恥じることはないわ」
南朋を好きになった。
そうだ、オレは南朋が好きなんだ。
男でも女でもない、『南朋』のことが好きなんだ。
ーー伝えよう。
自分の偽りのない素直な気持ちを南朋に伝えようと真夏は思った。
気持ち悪がられても南朋にどう思われても、この気持ちは真実なのだ。
南朋を好きだという自分の気持ちに嘘はつきたくない。
南朋への想いに蓋をしてしまったら、真実南朋を想う自分の心があまりにもかわいそうだと思った。
「凛子さん。オレ、伝えようと思う。
南朋にしっかり自分の気持ちを伝えようと思う」
目の前に飾られてある『運命の輪』をみつめながらはっきりと言葉にしたら、それまで鬱鬱としていた心が不思議なくらい晴れやかになるのを感じた。
色鮮やかな『運命の輪』を回していくのは自分しかいない。
どんな未来が待ち構えているにしても、今踏み出さなければ『運命の輪』はただ沈黙するばかりで状況は何一つとして変わらないのだ。
「『運命の輪』を、オレは回したい」
力強く呟く真夏に凛子はちょっと待っていてと声をかけて、戸棚からワイングラスを取り出した。
レモンを薄くスライスし、ワイングラスの縁をなぞって濡らしていく。
小皿に敷き詰めた砂糖に縁をつけ左右にゆっくりと回すと、縁に着いた砂糖がまるで雪の結晶のように美しいスノースタイルが現れた。
ゆっくりと、でも止まることなく凛子はアイスコーヒーにガムシロップと葡萄を熟成させたブランデーを合わせて軽くかき混ぜる。
スノースタイルの砂糖を壊さないように注意を払いながら、氷とスライスしたレモンを二枚ほど入れ、ブランデーとガムシロップが絶妙に混ざり合ったコーヒーを静かに注ぐと、ワイングラスを真夏の前にゆっくりと差し出した。
「サルマよ」
飲んでみて、と凛子はふんわりと微笑んだ。
オレンジの明かりに照らされてワイングラスの縁を飾る砂糖が、雪の結晶のようにキラキラして美しい。
そっと口をつけてコーヒーを含むと、コーヒーのほろ苦さに混じってブランデーの芳醇な香りが鼻腔をくすぐり、シャリッとした砂糖がほのかに甘いアクセントになっている。
「うまい……」
グラスの中で氷がカラン、と音をたて、サルマというこの飲みものはまるで今の自分のようだなと真夏は思った。
南朋への想いはほろ苦くて甘く、そしていつだって酔わせられるのだ。
南朋の笑顔に、南朋の存在の全てに。
「甘いだけじゃなくほろ苦い、だけど甘美な芳醇さを忍ばせてる、それが恋なんじゃないかしら。
だから人は恋をするんだわ。
何度も、何度もね」
凛子の一言一言が真夏の心にゆっくりと染み込んでゆく。
サルマの芳醇でほろ苦い、甘い恋の味わいとともに。
サルマのお代はいらないという凛子の言葉に甘えて店を出た真夏は、南朋にLINEで送った場所に向かっていた。
凛子の店から程近い公園。
『話があるんだ。来てほしい』
既読の印はついたが南朋からの返信はない。
来ない確率の方が高いが、それでも真夏は自分の気持ちを隠さずに伝えたいと思った。
凛子と甘くほろ苦い芳醇なサルマ、そして『運命の輪』に背中を押されて今、自分はこうして力強く歩いている。
もう揺らぐことのない南朋への想いを伝えよう。
そう思った矢先、真夏の目に見覚えのある背中が飛び込んできた。
ブランコを囲うようにある鉄柵に、もたれかかるようにして座っている懐かしいあたたかな背中。
人の気配を感じたのか、その背中がゆっくりと振り返る。
「南朋……」
振り返った南朋がどうかいつもの仕方ないなというような笑みを浮かべていてほしい、そう思いながら真夏はゆっくりと南朋に近づいて行った。
店内の片付けを終えた凛子は、『運命の輪』の前に座ってサルマの入ったワイングラスを傾けていた。
南朋に会って気持ちを伝えてくると言った真夏の顔は心を決めたからか、それまでの不安定な表情から精悍な顔つきに変わっていた。
南朋への想いが自分の中で揺るぎないものになったからだと凛子は思った。
愛は人を強くも弱くもするものだとは、凛子は真夏に言わなかった。
『運命の輪』を回してどのような未来であっても進もうとしている真夏には、それは必要のない言葉なのだ。
今頃、真夏は南朋に会えているだろうか。
来ないと思うけど、待ってみたいんですと笑ってドアを閉めた真夏だった。
サルマの芳醇な口当たりが凛子に叶わなかった透の想いを思い出させていた。
あのとき透は言っていたのだ。
『ジョシュアを愛してるんだ』
男でも女でもなく他の誰でもない、ジョシュアだから愛したのだと。
しかし透はその愛にだんだん弱らせられていき、揺るぎなかった想いの重さに自ら押し潰されてしまった。
愛は人を強くも弱くもする。
「透。私は強い女なのかしら、それとも弱い女なのかしら……」
語りかけると透のはにかんだような笑顔が眼裏に浮かんでくる。
透の面影は凛子の中から容易に消えることはない。
いなくなってからむしろその影は濃くなり、凛子の中に生き続けている。
この店に来る客は各々今を生きていて、その力強い生命力のようなものに圧倒され、そして羨ましくも思い始めている凛子だった。
カウンターに置かれてある、ケースに眠ったままのストラディバリウス。
このストラディバリウスを弾くことができたとき、凛子の『運命の輪』はきっと正しく前進することができるのだと凛子は感じていた。
その瞬間を待ち望むような、永遠に来ないでほしいような複雑な気持ちが凛子の心を支配する。
ただ今夜は『運命の輪』の上には透ではない、自分の運命を動かそうとする力強く凛とした真夏の姿が浮かんできて、そう思った自分の心の変化に戸惑いを隠せない凛子であった。
完
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)