まーたるのショートストーリー第四弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただければ幸いです(*´∀`*)
『ミッドナイトカフェ・WHEEL of FORTUNEへようこそ』
episode4 「ブラックローズ」
ドアが開いたとたんに広がったバラの香りで、凛子は顔を上げなくてもそれが誰のものなのかがわかった。
甘く優しい、そして華やかに美しいバラの香り。
「久しぶりね。いつ日本へ?」
出来上がって余熱の取れた焼き菓子をケースに並べる手を休めずに、凛子はいつものように穏やかな笑みを浮かべることなくカウンターに座った客に言った。
凛子の素っ気ない物言いを気にも留めないように、客は笑みを浮かべながら凛子の顔をみつめた。
「久しぶりに会ったっていうのに、相変わらず素っ気ないのね」
ふふっという笑い声もどことなく艶かしく聞こえるのに、凛子はあきらめたようにため息をついて少しだけ笑ってみせた。
「いつ日本へ?明日香」
「昨日着いたばかりよ。
三日前までドイツでリサイタルだったの。
明日の夜にはもう日本を発たなくちゃならないのよ」
せっかく帰ってきたのにつまらないわ、と明日香はその形のいい唇を尖らせた。
プロのヴァイオリニストとして世界中を飛び回る明日香に会うのはあの日以来だった。
しばらく会わなかった明日香はプロのヴァイオリニストとしての風格を持ち、もうあの頃の頼りなげなおとなしやかな姿はどこにも見当たらなかった。
「凛子がここでカフェを開いていると聞いて来たの。
どうしても会いたかったのよ、あなたに」
明日香の声が少しだけ震えたのを凛子は気がつかないふりをして、あの頃のままの無邪気な自分の姿をあえてみせつけようと思った。
透がいる毎日が輝いていた世界で過ごしていた、あの頃の自分の姿を。
「カフェを持ってみたかったのよ。
日本に来てすぐにいいところがみつかったから、思い切ってオープンしたの」
コーヒー豆とお酒にはこだわってるわ、と明るい声音で笑う凛子を、明日香は哀しげな瞳でみつめている。
「コーヒーはいかが?」
明日香の返事を待つことなく、凛子は棚からバラの装飾の美しい華奢なコーヒーカップを取り出した。
バラの香りを纏い、華やかで美しいこの人にふさわしいカップだと思った。
熱いコーヒーをカップに注ぎ、銀の小皿にさっきできたばかりの焼き菓子を乗せて明日香の前に差し出した。
香ばしいコーヒーの香りがふわっと辺りに広がる。
「ありがとう。
相変わらず上手ね」
焼き菓子を目の高さまで持っていき、まじまじとみつめて明日香は言った。
「透が大好きだったわね。
あなたのブラウニー」
『凛子のブラウニーは最高だよ。
ほんのり甘くて香ばしいんだ。
店で売っていたら毎日買いに行くよ!』
甘いものが好きだった透が一番好んで食べていたチョコレートブラウニー。
趣味がお菓子作りと言うだけあって凛子にはレパートリーが多くあるが、このチョコレートブラウニーを作るときだけは心があの頃にタイムスリップして、どうしても切ない想いが溢れ出てきてしまうのだった。
「あれから三年経つのね」
コーヒーを一口飲み、明日香はぽつりと呟いた。
「この三年間、あなたはどうしていたの?
ウィーンから突然あなたがいなくなって、私がどれだけ驚いたかわかる?」
明日香の射るような視線を感じながら、凛子はワイングラスを取り出した。
ゆっくりとワインの注がれる音がやけに大きく店内に響く。
「透がいなくなって、あなたまでいなくなって、私は何も手につかなかったわ。
しばらくヴァイオリンに触れることもできなかった。
凛子ーー」
明日香は語気を強めて凛子の名前を読んだ。
「あなたはなぜ、ヴァイオリンを捨てたの?」
凛子は顔色一つ変えずにワイングラスにたゆたう光をじっとみつめていた。
将来を期待されていた若きヴァイオリニストの筆頭として名前も知られ始めていた凛子が、突然ヴァイオリンを投げ出して拠点としていたウィーンを去ってしまったのだ。
そのことはちょっとした騒ぎにもなったし、すでにヴァイオリニストとして世界を飛び回っていた明日香にしてみれば、真実妹のように思っていた凛子の行動は青天の霹靂という言葉以外の何ものでもなかった。
「……私を恨んでいるの?」
明日香の言葉に凛子の眉がピクリと動いた。
「そうよね。
透を追い詰めたのは私……。
姉である私なんですものね」
「……違うわ」
そうじゃない、と凛子は思った。
透を追い詰めたのは明日香だけじゃない、自分だって同じことなのだ。
誰にも言えない恋心を抱えてどうにも身動きが取れずにいた透が、意を決してカミングアウトしたとき、あまりの衝撃に言葉を失ってしまったパリのアトリエでのあの日のことを、凛子は一つ残らず思い出すことができる。
あの日がばかみたいに青空で、開け放たれた窓からの風がばかみたいに心地良くて、目の前で泣きそうになって自分をみつめる透の瞳がばかみたいに優しかったことを。
「たった一人の弟、両親が早くに亡くなって二人で一生懸命に生きてきた大切な弟なのに、私は透を受け入れることができなかった。
あげくに自分の全てを賭けた恋にも裏切られた透は、あろうことか私たちの前から消えてしまったわ。
私たちは透を抱きしめることももう永遠にできなくなってしまった……」
凛子は深いため息とともに顔を覆った明日香の白く細い指をみつめ、同じように白く細かった透の指を思い出していた。
冬の公園を散歩しながら凛子の手はヴァイオリンを弾くための大切な手なんだからと、包み込み暖めてくれた透の大きな手が凛子は好きだった。
今まで極力思い出さないようにしていた透との日々が堰を切ったように溢れ出るのを、凛子はもう止めることはできなかった。
「私は今でも透を愛しているの」
凛子の静かな声に明日香は驚いてパッと顔を上げた。
「愛しているのよ」
凛子はそう言ってから、ああ、そうだと思った。
ーー私は透を愛している……。いつも、どんなときも。
もう二度と逢えないとわかっている今でさえ。
言葉にすると透への愛がさらに深まってゆくのを感じて、凛子の心は信じられないほどに震えていた。
「……透はあなたよりも彼を選んだのよ。
あなたが師とも仰いでいたジョシュア・ローレンを……」
「明日香」
驚いて目を見張る明日香に凛子は静かに言い放つ。
「透が彼を想うのと同じように、私も透を愛しているの。
どうしようもできない想いを抱いているのは透も私も同じ。
ただ違うのは透は死ぬことで愛を貫いたけれど、私は生きて愛を貫こうとしている、ただそれだけよ」
凛子はグラスのワインを一気に飲み干すと、胸いっぱいに広がったその芳醇な香りにも似た透とジョシュアの激しい恋の香りに酔ってしまいそうであった。
ジョシュア・ローレンは世界でも高名なヴァイオリニストで、凛子がヴァイオリンの師と仰ぎ全てにおいて目標としていた憧れの存在だった。
情熱的で繊細かつ大胆な演奏技術は、誰にも真似ることのできない唯一無二の世界観で聴衆を魅了し、加えて端正な美貌は男女問わず羨望の的であった。
ジョシュアから教えを乞うたびに凛子は彼の天才的な感性に驚かされ、人々の心の琴線に触れるほどの音色を自分も奏でたいと強く思うようになった。
すでに芸術家として名の知られ始めていた透とジョシュアは友人として交流を持っていたことは凛子も知っていたし、姉の明日香、そして自分がジョシュアに尊敬と敬愛の気持ちを抱いていることは透も知っていただろう。
凛子と明日香の気持ちを知りながら、透がジョシュアへの友人の域を越えた想いに気がついた瞬間がいつだったのか、凛子には全くわからなかった。
透にとって自分はかけがえのない存在だと信じて疑わないほどの幼さだったのか。
自分が透を想うよりも、透はそこまでの愛情を自分に抱いていなかったというのだろうか。
パリのアトリエで話があるんだと言った透の静かな声に、一切の不安も感じずにいたあの日の自分を嘲笑いたくなってくる。
『ジョシュアを愛してるんだ』
苦しそうな、でも揺るぎないジョシュアへの愛が痛いほど伝わってくる透の声に、凛子の思考が一瞬で止まってしまった。
開け放たれた窓から流れてくる爽やかな風が頬をくすぐって、凛子は今自分に起こっていることが現実なのか夢なのかわからなくなった。
ーー白昼夢をみているみたい……。
透の口から溢れ出るジョシュアへの愛の言葉をぼんやりと聞きながら、凛子はどこか他人事のように思えてきて思わず笑みが溢れてしまった。
凛子の笑みを見た透の表情に初めて怒気が現れ、しかしそれはすぐに悲しみの表情に変わっていった。
その透の切なげな表情を見たとき、透の心はすでにジョシュアのものであり自分が入り込む隙などどこにもないことを悟った。
どんなに愛を伝えても一方通行なのだ。
ヴァイオリンの一音一音には透への愛を乗せて弾いている凛子にとって、もはやヴァイオリンを手にすることすら恐ろしいことに思えた。
「あなたのヴァイオリンの音色は昔とは違う、今でしか奏でられない音色を響かせることができると思うわ。
その音に誰もが惹きつけられるはずよ」
明日香は凛子の手に自分の手をそっと重ねた。
「私と一緒にウィーンに戻りましょう。
またヴァイオリンの世界に戻ってほしいの。
あなたのヴァイオリンをこのまま眠らせておくのは、透にもあなたにも申し訳ないわ」
重ねられた明日香のひんやりとした手の感触が、しだいに熱く熱を帯びてくるのを凛子は感じた。
「私がもっと透を受け入れていれば、あの子の苦しみをわかってあげていればこんなことにはならなかったのよ!
透にとって唯一の家族なのに私は世間体のことばかり考えて、あの子の幸せを何一つとして思ってやることができなかったのよ。
それどころか自分の弟がゲイだってことを恥ずかしいことだって、透本人に言ってしまったんだから……!」
明日香は叫び再び手で顔を覆った。
指の隙間から涙が溢れ、小さな泣き声はしだいに嗚咽に変わっていった。
性は多様性。
人を好きになるのに性別は関係ないことだと凛子は思っていた。
ウィーンにいた頃は同性の恋人を持つ友人もたくさんいたし、そんなに珍しいことでもなかったのだ。
でも明日香は違った。
たった一人の肉親であり自慢の弟が恋人に選んだのが男性で、よりにもよって妹のように愛しんでいる凛子が敬愛してやまないジョシュア・ローレンだということがどうしても許せなかった。
それからの明日香の怒りは凄まじく、激昂する明日香を前に透がどんどん青ざめてゆくのを凛子は息を飲んでみつめていたのだ。
「私が透を追い詰めて、あなたからもヴァイオリンを奪ってしまったのよ。
私が、私がもっとわかっていれば……!
私がもっと……」
明日香の嗚咽が悲鳴のように凛子の耳をつんざいた。
透が自ら命を絶ってしまったこと、凛子がヴァイオリンから離れてしまったことに、明日香は耐えがたい罪悪感を抱きながら今まで生きてきたに違いなかった。
透を愛していると同じくらい、凛子は明日香を実の姉のように慕っていたのだ。
妹のように接してくれた明日香に感謝こそすれ、恨む気持ちなど凛子には一切なかった。
ヴァイオリンから離れウィーンを去ったのは、一重に透との思い出が至るところに残る街に、一人取り残されるのに耐えきれなかった自分の弱さが原因なのだ。
「ヴァイオリンから離れたのは透のせいでも明日香のせいでもないわ。
それは私自身の問題なの。
私に意気地がなかったからよ。
この先透への想いを乗せたヴァイオリンの音色が透に届かないことに、私は耐えきれなかった。
……ただ、それだけよ」
凛子は静かに微笑み、明日香の細い肩にそっと手を置いた。
「もう、泣かないで、明日香」
顔を上げた明日香の目に凛子の肩越しから透の描いた『運命の輪』の絵が眩しく飛び込んできて、凛子の言葉がまるで透からの許しであるように思えた。
凛子は氷の入ったグラスをカウンターに置き、棚に並べられてある数多くの瓶の中からラム酒を取り出してグラスに三分の一ほど注いだ。
その上から濃いめに落としたコーヒーを注ぎガムシロップをほんの少し垂らすと、ゆっくりとかき混ぜて明日香の前にそっと差し出した。
「ブラックローズよ。
ゴールドラムとコーヒー、ガムシロップだけのシンプルなコーヒーカクテルよ」
明日香がゆっくりと口にすると、アイスコーヒーの香ばしさとともにゴールドラムの甘い香りがふんわりと広がり、その中にピリッとした閃光が駆け抜けていった。
「甘くてでもとってもスパイシーなコーヒーカクテルなのね。
今の私にはぴったりの辛さだわ」
目が醒める、と赤くなった目をほころばせて明日香は笑った。
「明日香にぴったりのコーヒーカクテルだと思ったの」
「私、こんなにスパイシーかしら」
明日香はおもしろそうに笑い、その甘くスパイシーなコーヒーカクテルをおいしそうに飲み干した。
「美しい黒人女性という意味なのよ。
黒人女性には凛とした美しさがあるわ。
誰にも負けない芯の強さとしなやかな美しさ。
どんなことにも屈しない、揺るぎない信念の上に立つ凛とした女性。
私はそんな女性でありたいといつも思うの」
凛子は明日香をみつめて微笑む。
「明日香は私にとっての『ブラックローズ』なのよ。
昔も今も変わらないわ」
微笑む凛子の肩越しで『運命の輪』がゆっくりと回ったような気がして、明日香はハッと目を見張った。
透の死後ずっと罪悪感に苛まれてきた明日香にとって、凛子の一言で全て赦されたような気がした。
もう前に進んでいいのだと透が許してくれたようにも思えた。
「ここに来たのは透と凛子に許しを乞うためだったのよね。
私、勝手だわね……」
寂しそうに微笑む明日香を凛子がふいに抱きしめた。
「明日香……。あなたにとても会いたかったわ」
そう言った凛子の瞳から堰を切ったように涙が溢れ出すと、明日香は昔していたように親愛を込めて優しく抱きしめてその涙を拭った。
笑い合う二人の間で透の『運命の輪』がゆっくりとやわらかな音をたてて回っているように見えた。
翌日にはもう日本を発たなければならないハードスケジュールにもかかわらず、今回明日香が凛子の元を訪れたのには、透のこと以外にもう一つ理由があった。
カウンターに置かれたヴァイオリンケースを見て、凛子の表情が一瞬にして高揚したのを明日香は見逃さなかった。
「あなたのヴァイオリンよ。
いつでも弾けるように手入れはしてあるわ。
あなたに会ったら絶対に渡そうと思って持ってきたの」
何かを言いかけた凛子を遮るように明日香はなおも続ける。
「このヴァイオリンは誰もが弾きこなせる代物じゃないことは、あなたが一番良く知っているでしょう?」
世界的ヴァイオリニストの風格をこれでもかと見せつけながら明日香は華やかに微笑んだ。
「あるべき場所にようやく戻って、ヴァイオリンも喜んでいるわ。
戻っていらっしゃい、凛子。
そしてあなたの音を思い切り奏でてみせて」
待ってるからと凛子を抱きしめると、明日香は軽やかにタクシーに乗り込んだ。
タクシーが見えなくなっても凛子はしばらくそこから動けなかった。
明日香が来てほんの二時間足らずの間に、凛子の世界は一気に加速して進んだような気がした。
これは現実なのか夢なのかと思いながら中へ入り、カウンターの上のヴァイオリンケースを見てやはりこれは現実なのだと凛子は息を飲んだ。
おそるおそる触れたヴァイオリンケース。
そっと開けてみると懐かしい匂いがふわっと凛子の鼻先をくすぐった。
懐かしい大好きなウィーンの匂いが凛子を優しく包み込む。
「透……。私、また弾けるかな。
弾いてもいいかな……」
『運命の輪』の絵の前で凛子はか細い声で呟く。
ケースの中のヴァイオリンが艶やかに光を帯びて、音を掻き鳴らす日をいまかいまかと待ち望んでいるようにも見えた。
『凛子さんの運命の輪は、そろそろ止めてもいい頃じゃないのかね』
未来へと進む『運命の輪』を過去へと進ませている凛子を案じた常連客の一ノ瀬の言葉が、凛子の心に突き刺さったままになっている。
一ノ瀬の言葉が心の中で不安定にぐるぐると回り始め、凛子は長い時間ただじっとヴァイオリンをみつめ続けていた……。
完
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)