まーたる、ショートストーリーを書いてみた第9弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´꒳`*)
『ミッドナイトカフェ・WHEEL of FORTUNEへようこそ』
episode 9 「ボブ・モーゼス・コーヒーワイン」
低く垂れ込めた雲の隙間から幾筋もの光が降りおりる様を、凛子は電車に揺られながらぼんやりとみつめていた。
ウィーンに戻ってきて今日で半月。
レディ・アデリナの好意に甘えて、レディ・アデリナが所有する小さなアパルトメントに滞在している。
ここは音楽大学生のためのアパルトメントで室内は防音壁になっているため、ウィーンに戻ってからの凛子はさらにヴァイオリンの音を取り戻すべく日夜練習に励んでいた。
「こんを詰めすぎるのは良くないわ。
少し気分転換が必要ね」
あまりにもストイックに自分を追い詰めている凛子を見かねたレディ・アデリナの一言もあり、凛子はウィーン郊外に足を伸ばすことにしたのだった。
ヴァッハウ渓谷はドナウ河下流にあり、修道院やぶどう畑、古城が美しく、小さな村々が集まる地域である。
クラシックをこよなく愛し、その中でも『美しき青きドナウ』が好きだった透と以前よく出かけた思い出の場所でもあり、取り壊される運命の教会がある場所でもあった。
透との思い出の教会が取り壊されると聞いた時には、凛子はすでにウィーンに戻ることを決心していたのだ。
電車の座席の感覚も車窓から見える景色も、あの頃のまま何一つとして変わらない。
凛子は時間がゆっくりと逆戻りしているかのような感覚に捉われて、現実にしがみついていたい思いでギュッと目をつむった。
懐かしい駅に着くと、そこにはウィーンの華やかさとは違った素朴な美しさが広がっていた。
可愛らしい街並みを抜けた先にドナウ河が現れると、凛子は河の流れを見つめながらゆっくりと深呼吸した。
『見て、凛子!
これが美しき青きドナウの流れだよ!』
初めて二人で訪れたときの珍しく透のはしゃいだ声と、ヨハン・シュトラウス2世が創り上げたウィーンの華やかで美しい音の世界がドナウ河の流れとともに蘇り、凛子の胸が静かに熱くなっていった。
優しく吹く風にドナウ河の流れもたゆたうように揺らめいている。
隣に透がいない現実を改めて突きつけられた凛子は、言いようのないざわめきに襲われそうになりながら目的地へと足早に向かって行った。
広大なぶどう畑を越えた先にその教会はあった。
地元の住人しか知らないような小さな教会だ。
いつ訪れても扉に鍵はかかっておらず誰でも入れるようになっている教会に、無用心だなと笑っていた透のはにかんだ笑顔を思い出す。
当然のように鍵のかかっていない扉を開けると、綺麗に並べられた長椅子と目の前には小さな祭壇があり、雲が晴れて現れた陽の光がステンドグラスに美しい生命を注いでいるかのように煌めいていた。
静寂だけがそこにあるその空間をステンドグラスの荘厳な光に包まれながら、凛子はゆっくりと祭壇の前に進んだ。
ーーあの頃のまま、何も変わっていない……。
振り返れば透がにこやかに佇んでいるのではないかと思ってしまうほど、この中はあの頃から時が止まったままだ。
掲げられた小さな十字架を見上げていた凛子は、徐にポケットから指輪を取り出した。
三年前まで片時も左薬指から外されることのなかった、透と凛子の名前が彫られてあるそのシルバーリングは、ステンドグラスの光を浴びてキラキラと輝いている。
『いつも一緒にいるよ。
このさきいつだって、どんなときも』
あのときこの場所でそう言った透の瞳は真っ直ぐに自分に向けられていたし、透の言葉に一つの嘘もなかったと信じている。
しかしそれから半年も経たないうちに起こった嵐のような出来事は、凛子の全てを変えてしまった。
左薬指に輝く指輪をつけたあの瞬間は、誰がこんな未来を予測できただろう。
あのときの凛子も、透でさえ自分の未来を予測することはできなかった。
だだ目の前の愛しい人の想いに心が震え、幸福の波がドナウ河の流れのようにひたひたと押し寄せてくるのを感じて、心からの幸福感に満たされていたのだった。
凛子は一つ大きく息をつくと、指輪を再びポケットにしまいぐるりと天井を見回した。
老朽化で今年中に取り壊されるという教会。
凛子にとって今でも透の愛を全身で感じることのできる、かけがえのない場所。
「トールへの愛を、最後にこの教会いっぱいに響かせてほしい」
レディ・アデリナの切なる願いと透への変わらない想いが重なって、今、凛子はこの場に立っている。
明日香の遠慮ない指導を受けながら、昼夜を問わずヴァイオリンに向かい合ってきたおかげか、指は動くようになってきた。
しかしそれでも自分の音には程遠い音色だと凛子は思う。
あの頃奏でていた自分の音色。
ヴァイオリンへの熱い情熱と透への深い愛があったからこそ、『天上の音色』と称されるあの音を奏でることができたのだ。
ーーでも今の私は、そのどちらも中途半端な覚悟のままだ……。
凛子が俯いて唇をかみしめたそのとき、静かに光が差し込み扉がゆっくりと開いた。
長身のシルエットが眩しくて、透が現れでもしたのかと鼓動が一瞬にして高まった凛子の目が映したものは……。
「……Mr.ローレン……」
音楽界の表舞台から姿を消した、凛子が敬愛しそして憎悪を抱かずにはいられないかつての師匠、ジョシュア・ローレンその人の姿であった。
透との儚い思い出に包まれた厳かで優しい空間が、それまでとは一変して張り詰めたものになった。
見つめ合う二人は時が止まったかのように動かない。
どれほどの時間が過ぎたのか、ジョシュア・ローレンはゆっくりと凛子の方に歩いてきた。
「……リンコ」
沁みるような低く穏やかな声はあの頃のままで、
「ピッツィカートが弱い、もっと弾んで!そう、身体中で弾むんだ!」
と、まるでレッスンのときに言われていた言葉が続いていくように思えて、その声は凛子の心にじんわりと沁みいってゆく。
「どうしてここに?という表情をしているね」
ジョシュア・ローレンは少し笑ってそしてふいに泣きそうな表情をうかべて凛子をみつめた。
透との関係をゴシップ記事に面白おかしく書かれ、パパラッチの格好の餌食になってついには表舞台から姿を消してしまった音楽界の貴公子とも呼ばれたジョシュア・ローレンが過ごしてきたこの三年間はいったいどのような月日だったのだろうと凛子は思った。
自分が感じてきたように、毎日毎晩透を恋しく思ってきたのだろうか。
透が死を選ばずにすむように、どうしてもっと透の心に寄り添えなかったのかと自分の不甲斐なさに苛まれる日々を送ってきたのだろうか。
ヴァイオリンへの湧き上がる情熱を感じながらも、希望も持てずにただ生きてきた三年間。
ジョシュア・ローレンの表情からは何も読み取れないことに、凛子の心は言いようのない不安に襲われていた。
「レディ・アデリナから聞いたんだ。
リンコはきっとここにいると」
「行き先を言った覚えはないけれど」
凛子のぶっきらぼうな物言いを、ジョシュア・ローレンは何事もないかのように受け止める。
「君のことならなんでもわかるそうだ。
……私もレディ・アデリナのようでありたかった」
そう言うとジョシュア・ローレンは初めて表情を崩した。
穏やかだった表情がしだいに苦悶に満ちたものへと変わってゆく。
「私は君に謝らなければならないことがある。
おそらく今日、このときが最後のチャンスだと思うから聞いてほしい」
「透のことなら何も聞きたくはありません。
透と私の世界には、あなたは必要ないんです。
昔も今も」
凛子のきっぱりとした強い口調を、ジョシュア・ローレンは静かに聞き、そしてゆっくりと祭壇の前に立ち膝まづいてその小さな十字架を見上げた。
「神よ、私の罪をお許しください。
私の愛する人を裏切った私の罪を懺悔したいのです」
ジョシュア・ローレンの低い声が小さな聖堂の中に静かに響いた。
凛子は背中を向けたまま立ち尽くしている。
「私の愛した人は生涯でただ一人、そのかけがえのない大切な人をあなたの御許に行かせなければならなかったことは、全て私の弱い心ゆえでした。
彼は苦しみながらも私への愛を貫いた、そして私は彼の想いを受け止めました。
彼の純粋な心、突出した芸術への才能、全てが愛おしくてたまらなかった。
彼の恋人が私の最愛の愛弟子であったとしても、私はどうしても彼を求めずにはいられなかったのです。
二人にとって一番大切な存在を傷つけてまで手に入れた愛だったのに、私の弱い心のせいで失うことになってしまいました。
将来を約束した恋人が同性だということに対して向けられる好奇な視線に、私は耐えることができなかった。
これまで築き上げてきたヴァイオリニストとしての地位、名声、それら全てを失うかもしれないことを私はしだいに恐れるようになっていった。
トールを愛している、愛しているのに!
私の中でもう一人の私が嘲笑うように言うんだ……。
『おまえはもう終わりだ』と。
あの日も私たちは一緒にいてカフェでコーヒーを飲んでいた。
そこへパパラッチが無遠慮にカメラを向けてきて、卑猥な言葉で煽るようにシャッターを切るパパラッチに恐怖を覚えた。
気が動転して慌てる私を、トールはただ静かに微笑んでみつめていたように思う……。
そんなトールを見た瞬間、重なってきた彼の手を振り払ってしまったんだ。
パパラッチの、世間の好奇な視線や思惑に戸惑い傷ついていたのは私だけじゃない、トールだって同じだったのに!
そのときのトールの不思議と優しい瞳を、私は忘れることができない……。
そして私はあろうことか彼を置き去りにしてその場を去ってしまったんだ。
最低の人間だろう……?
でもあのときはああすることしかできなかった。
トールが命を絶ったのはその夜だ……。
リンコ、すまない……。
私は君の心から愛する人を二度も奪ってしまった。
謝ってすむことじゃないことはわかっている。
人の心を踏みにじった者が、どうして人の心に寄り添う音楽など奏でられるんだろう。
だから私は音楽界から姿を消したんだ。
もう、二度と戻ることはないよ。
それがせめてもの贖罪だから……」
「Hab Keine Angst!」
(甘ったれないで!)
静寂な空間を切り裂くように、凛子の鋭く怒りに満ちた叫び声がこだました。
祭壇の前に立つジョシュア・ローレンに静かに向き直り、凛子は燃えるような瞳を向けた。
「そう、あなたは私から透を奪っていったわ。
それまで築いてきた二人の物語の続きを、もう創ることができなくなってしまった。
寂しくて辛くて、透のいない世界が色褪せて見えて……。
でもそれでも、透があなたと生きる道を選んだのならば理解しようと思った。
マイノリティへの風当たりがまだまだ強くても、私だけは透の味方でありたいと思った。
でもそう思うには私はまだ透を想いすぎていて、その間に透は飛んでいってしまったんだわ。
透を永遠に失うとわかっていたら、すぐにでも透を抱きしめに走って、その悲しみに寄り添えたのに!
もう二度と会えない、触れることもできない、その見たこともない世界に一人飛びたってしまった……!」
凛子の瞳から涙がとめどなく溢れ、目の前のジョシュア・ローレンがどのような表情で佇んでいるのかわからなかったが、凛子は今まで抑えに抑えてきた感情を爆発させた。
「あなたは音楽界の貴公子とも呼ばれる世界的に高名なヴァイオリニストで、だからこそパパラッチの過度な標的になることも仕方のないことだと透は受け入れていたはずよ。
でも透にはそれに負けないくらいのあなたへの愛があった、だからどんなことがあっても透の心は決して揺るがなかった。
透はあなたを信じていたのよ。
二人は同じだって。
たとえどんなことがあったとしても、いつだって同じ気持ちでいるんだって!」
泣き叫ぶ凛子をジョシュア・ローレンはきつく抱きしめた。
あたたかなその温もりがまるで透のようで、凛子もジョシュア・ローレンも声をあげて泣いた。
透はいない。
どれほど後悔しても懺悔をしても透は戻ってこない。
二人の心に虚しさがこみ上げてきて、枯れることのない涙が頬を伝ってゆく。
ステンドグラスから降り注ぐ光が、今まで押し殺してきた感情の全てを吐き出した凛子を優しく照らしていた。
教会に差し込む光が夕暮れを感じさせる頃、ようやく気持ちが落ち着いた凛子は、長椅子にもたれかかり祭壇の十字架をみつめていた。
透から指輪をもらった日は、間違いなく凛子の人生で一番輝いていた日であった。
もう二度とは戻らないあの日を、凛子はどうしたって忘れないだろう。
しかし忘れなくてもいいのだと思う。
透のいない世界をこれからも生きていくのだとしても、愛する人と巡り合うのだとしても、透への愛は永遠に変わることなく自分の中で生き続けていく。
『いつも一緒にいるよ。
このさきいつだって、どんなときも』
透の声が十字架から優しく聞こえてくる気がして、凛子はふっと微笑んだ。
ーーそうね、あなたは今もこうして私と一緒にいてくれるわね……。
ポケットの中の指輪にそっと触れたとき、外に出ていたジョシュア・ローレンがポットを手に戻ってきた。
「風が出てきて少し冷えてきたから」
そう言って凛子に渡したカップから懐かしい香りが漂よい、教会中を満たしていった。
カップの中を凝視して動かない凛子に、
「……覚えているかい?」
「ボブ・モーゼス・コーヒーワインはあなたのお得意の飲み物で、あなたと会う日は必ずご馳走してくださったじゃないですか。
……忘れるはずがありません」
良かった、とジョシュア・ローレンは優しく微笑み、自分もカップに注いで一口飲むと、
「うん、今日は特に上出来だ」
と嬉しそうに言った。
深煎りのコーヒー豆、水、粒アーモンド、ザラメ、赤ワインを瓶に入れ一昼夜寝かして作るボブ・モーゼス・コーヒーワインは西部開拓時代のカウボーイたちが好んで飲んでいたという飲み物だ。
赤ワインのフルーティな香りとコーヒーとアーモンドの香ばしい香りが鼻腔をくすぐり、初めて飲んだときずいぶん薄い味の飲み物だなと思って眉をしかめてしまったことを思い出した。
「薄い味だろう?
数十日ほどかけて乾燥地帯を旅するカウボーイたちは、のどの渇きをこのボブ・モーゼス・コーヒーワインで癒していたんだ。
何杯も飲むからこれくらい薄くてちょうどいいんだよ」
と、その様子を見たジョシュア・ローレンから笑われたものだった。
立ち上る湯気はヴァイオリンへの情熱と透への愛に溢れていたあの頃のまま、甘く香ばしい匂いが優しくたゆたっている。
ゆっくり口にすると、凛子の中にボブ・モーゼス・コーヒーワインの不思議な味わいが駆け巡り、硬く凝り固まった心がゆっくりと解れていくように、ぽかぽかとした温かさに包まれていった。
「Mr.ローレン。
あなたはもう、ヴァイオリンの世界へ戻らないのですか?」
唐突すぎる凛子の問いにジョシュア・ローレンは狼狽したように見えたが、すぐに落ち着いた表情でゆっくりと首を振った。
「私にその資格はないよ、リンコ」
「なぜ?」
「私は世間から向けられる好奇の視線に耐えられなくて、誰よりも大切なトールの信頼と愛情を踏みにじった男だ。
私の弱さがトールを追い詰めたのに、そんな非道な人間が音楽を……人の心に響く音楽を奏でられるわけがないじゃないか!」
「それは違うわ」
凛子は静かにジョシュア・ローレンをみつめた。
「音楽は聖人君子でもないと奏でられないというの?
いいえ、そうじゃない。
音楽は人の心に寄り添うものよ。
喜怒哀楽、人の全ての感情に寄り添うもの。
喜びや楽しさだけを知り、悲しみや苦しみを知らない人間から奏でられる音楽が人の心に響くわけがないわ。
悲しみや苦しみを知っているからこそ、人の心に寄り添い、響く音色が届くのだと思うの。
愛することの喜びと悲しみを知ったあなただけにしか奏でられない音があるはずよ」
凛子はカップの中を空にして立ち上がり、ふうっと一息ついた。
「この教会、年末には取り壊されるんです」
ジョシュア・ローレンが驚いたように凛子を見上げた。
「ここは透と私の思い出の場所なんです。
私は最後のミサのときに、ここで透への想いを音に乗せて響かせます。
私の音の全ては透への愛の音なんです。
だからこそ私はここで透への愛を響かせて、天まで届けたい。
そのためにウィーンに戻ってきました。
天にいる透にその音を届けられたなら、私はここから前に進むことができると思うから。
だからあなたも、あなたにしか奏でられない音を響かせてください。
あなたを待っている人は世界中にたくさんいます。
透への贖罪のためにあなたがヴァイオリンを封印することを透は望まないわ」
凛子の言葉にじっと耳を傾けていたジョシュア・ローレンの瞳に再び涙が溢れ出していた。
自分をみつめる透の瞳にはいつも限りなく深い愛情が込められていたこと、そして最後に見せた透の、絶望を隠した限りなく優しい瞳が思い出されて涙がとめどなく溢れてくるのだった。
「ボブ・モーゼス・コーヒーワイン、ご馳走さまでした。
とってもおいしかった。
またお会いできて本当に良かった……。
透があなたに会わせてくれたのね、きっと」
むせび泣くジョシュア・ローレンをそっと見やり、凛子は静かに扉を閉めた。
夕暮れが辺りをオレンジの世界に染めている。
再び音楽の世界に戻るのか、このまま心が死んだように生きていくのか、あとはジョシュア・ローレン本人が決めることだ。
プロのヴァイオリニストのたまごであった自分さえ、再び音楽の世界に戻ることには躊躇せずにはいられなかったのだ。
世界的に高名なヴァイオリニストであれば、なおさらその恐怖心は大きいだろう。
しかし彼が前に進みたいと少しでも思うのならば、彼の中にある『運命の輪』を自分自身で動かさなければならないのだ。
『運命の輪』は他人では決して動かすことができず、自らの意思でしかその輪は回らない。
ドナウ河のほとりを歩きながら、『美しき青きドナウ』の美しいメロディが脳裏に流れてきて、凛子はドナウ河の流れのように優しい曲だと微笑んだ。
見上げた空はしだいに薄青に染まり始め、レディ・アデリナ、明日香が待つ現実、透のいない世界にもどるべく凛子は足早に駅へと向かうのだった。
完
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)