まーたるのショートストーリーを書いてみた第7弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´∀`*)
『ミッドナイトカフェ・WHEEL of FORTUNEへようこそ』
episode7 「サロン・アインシュペンナー」
梅雨の晴れ間が覗く昼下り。
先ほどまでコーヒーを飲んでいた客が帰ると、凛子はカウンターで少し遅めの昼食をとった。
この店ではコーヒーとアルコール、そして少しの焼き菓子しか提供しないので、食事らしいものはない。
だからいつも凛子の昼食は焼き菓子と一緒に焼くスコーンやビスケットなどを手作りジャムと一緒に食べる。
今日の場合はスコーンと苺ジャムで、凛子は苺の形がほとんど残るくらいが好きなのでジャムだけでも十分な食べ応えがあった。
ヴァイオリンの音色が静かに流れる中、こうして窓から差し込む光をみつめていると、ウィーンで過ごした日々を思い出す。
ヴァイオリニストを夢みてひたすらヴァイオリンに向かい合った日々。
夢のステージに立った矢先に訪れた、凛子の人生を一気にモノクロの世界に変えてしまったあの日の午後も、ちょうどこんな日だった……。
凛子はハッとして一瞬閉じかけた瞳を無理やり開くと、食器を流しに置いてがちゃがちゃと洗い始めた。
ーー余計なことは考えない。
明日香がストラディバリウスを持ってきたあのときから、凛子は自分自身に少しずつ現れている変化に明らかに戸惑っていた。
音楽から離れ日本に帰国してこの喫茶店をオープンさせてからは、過去のことは全て水に流そうと決意したのだ。
生きる喜びだったヴァイオリンも、音楽に包まれながら輝いた毎日を過ごしたウィーンの街も、大切な仲間や友人も、たった一人、透を除いては他の全てを捨て去ろうとした凛子だった。
しかしこの店に来る客のそれぞれの人生にほんの少しでも触れ始めてから、それまでモノクロだった凛子の世界が少しずつ色味を帯びてきたのだ。
それぞれの悩みに苦しみながらも、この店を出る頃には客たちは自分で答えを見つけ出している。
透が描いた『運命の輪』の絵のおかげだと口々に言いながら。
クロスで食器を拭いて棚にしまい終わったとき、ドアの前にある郵便受けの蓋が開く音がして、店の前をバイクが通り過ぎて行った。
蔦がからまっていて蓋が開けづらい郵便受けは前のオーナーが設置したものだ。
郵便物を取りづらいからそろそろ新しいものに替えようかとも思うのだが、趣があるのでなんとなくまだそのままにしてあった。
ドアを開けて空を見上げると雲の隙間から幾筋もの光が降り注いでいた。
『天使の梯子』と呼ばれるその光の筋をみつめながら、凛子は昔通っていたウィーンの小さな教会のステンドグラスを思い出していた。
ステンドグラスから降り注ぐ色とりどりの美しい光の筋。
その光に照らされた透の横顔はとても静かで、あのとき透は神様を前に何を思っていたのだろう。
あのときすでに透の心は、ジョシュア・ローレンへの想いで千々に乱れていたのだろうか。
絡まった蔦をゆっくりと避けながら郵便物を取り出す。
手に取った白い封筒の表に書かれてある流れるような文字には見覚えがあり、凛子の動悸が一瞬にして速くなった。
優しい字体、貼られてある天使の羽の形をした金色のシール。
「レディ・アデリナ……」
懐かしいその名前を口にした途端、凛子は思考の全てをまるでウィーンの空に放り出されたような不思議な解放感を感じていた。
そしてその心地よさに自分がどれほどウィーンの街を恋しく、そして欲しているのかを思い知らされて愕然と立ち尽くしていた。
カラン、と乾いた鐘の鳴るようなドアの開く音がして、凛子はいらっしゃいませとぎこちない笑みを浮かべながら、かろうじて現実の世界に踏みとどまった。
コーヒーを淹れているときはいつも心穏やかな凛子であるのだが、いつもなら心を落ち着かせてくれるはずのコーヒーの香ばしい香りも緩やかに流れるヴァイオリンの音色も、今日に限っては凛子の波立った心を鎮めることができなかった。
22時を回って客足が途絶えたのをいい頃合いだと、凛子は表の看板の灯りを落とした。
いつも通り店内の掃除を丁寧に行いながらも、凛子の意識は常にカウンター内の緑の缶に集中していた。
緑色をしたアンティークの四角い缶は、透が絵を描くときに使う画材を入れていた物で、さりげなく彫られてあるオリーブの葉の模様を凛子が気に入って譲ってもらったものだ。
カウンターの上の灯りだけをつけて凛子は白い封筒を取り出した。
差出人はレディ・アデリナ。
凛子がウィーンで住んでいた頃に毎日のように訪れていたカフェのオーナーだ。
澄んだ声でいつもコロコロと笑っていて、上手く音が出せなくて落ち込んでいた凛子を前向きな言葉でいつも励ましてくれていた。
凛子と透をまるで自分の子どものように愛しんでくれて、レディ・アデリナは凛子にとってウィーンの母とも言うべき大切な人だった。
しかしあの出来事があってから、凛子は誰にも言うことなく突然ウィーンを去ってしまい、レディ・アデリナとももう三年以上会っていない。
連絡しようと思えばこちらからできたのだが、凛子はウィーンでの出来事全てを封印しようと思い、誰とも連絡を取ることをしなかった。
意を決したように封を開けると、ふわっと爽やかなオレンジの香りが漂ってきて凛子は思わず目を閉じた。
懐かしいウィーンの風とともに香ってくるオレンジは、レディ・アデリナがいつもつけている香水の匂いだ。
少し吸い込んだだけで、凛子は懐かしさのあまり涙がこみ上げてきた。
白い便箋を開くと、踊るようにすべらかに書かれてあるドイツ語が目に飛び込んできた。
凛子はすうっと息を吸い、レディ・アデリナの手紙を読み始めた。
『親愛なるリンコ
元気にしていますか?
あなたがウィーンを去ってからもう三年も経つのね。
トオルがいなくなって、まさかあなたまでが私の前から消えてしまうなんて思いませんでした。
この街でのトオルとあなたはとても輝いていたわね。
トオルは絵画を、あなたはヴァイオリンを心から愛し、情熱を傾けるあなたたちの姿はいつしか私の希望にもなっていました。
才能溢れるあなたたちはきっと世に出ることができる、私はそう信じてやまなかった。
トオルとあなたが世に認められ始めて、私がどんなに嬉しかったかわかる?
嬉しくて嬉しくて何度も抱きしめてキスをした私に、あなたたちは困ったような笑顔を浮かべていたことをよく覚えています。
あなたたちの未来は間違いなく輝きに満ちていたのに、神様は試練を与えられてしまった。
トオルは愛ゆえに神様の試練の壁を乗り越えることができなかった。
ジョシュア・ローレンとの恋はトオルにとって不幸なことだったと周りは口々に言ったわ。
あなたの耳にも届いているかしら。
輝かしい才能に満ちた青年を死に追いやった音楽家ジョシュア・ローレンは、その醜聞のせいでかつての輝きを失い、今や廃人のようだと言われていることを。
リンコ、トオルの死はあなたにとって命と言ってもいいヴァイオリンを捨てさせるほどの衝撃だった。
あなたが奏でるヴァイオリンの音色には、いつもどんなときもトオルへの想いが込められていたわ。
愛に満ちた、深い深い音色。
その音を聴くたびに心が震えるほど感動したわ。
あなたが大切に大切にしていたヴァイオリンを置いたまま帰国したと聞いたとき、あなたの言いようのない悲しみと喪失感、そして覚悟がどれほど深かったのかを知りました。
だけど私は思うの。
トオルとジョシュア・ローレンとの恋は醜聞なんかじゃない、とても純真で崇高なものだったと。
同性同士の恋、ジョシュア・ローレンに妻子がいたこと、ジョシュア・ローレンの弟子でもありトオルの恋人だったあなたという存在。
だけど人は恋に落ちるとき、自分の周りの一切が一瞬でその意味を持たなくなってしまうものよ。
大切な人を悲しませてまでも成就させたい想いは諦めた方がいい。
そう思って心に蓋をすればするほど想いは煙のように蓋の隙間から溢れ出て、しまいにはその煙で頭が痺れきってしまう。
リンコ、私はあなたに謝らなければいけない。
トオルからジョシュア・ローレンへの想いを打ち明けられたとき、私はもっともっと深く考えるべきだった。
あなたがトオルをどんなに愛していたかはヴァイオリンの音色からわかりきっていたはずなのに、私はトオルの真剣な気持ちを冗談めかすことができずに、自分の心に正直に生きるべきだと言ったわ。
私とジョシュア・ローレンは古くからの友人で、彼のトオルへの想いが本物だということも知っていたの。
でもジョシュア・ローレンには家庭があり、トオルにもあなたという恋人がいて、私は自分の心に正直に生きるには少し身勝手な気がするとも言った。
でも本心を隠して生きることはとても辛いことよ。
偽りの心を抱えて生きていて、果たして人生を力強く生きていると胸を張って自分自身に言えるかしら。
たとえ気持ちを上手く隠せたとしても、それはいつかどこかで必ずほつれていくものよ。
あなたにリンコを捨ててまで彼を愛し抜く覚悟があるのなら、自分の心に正直に生きた方がいいと思うと私は言ったの。
そうだねと静かに微笑んだトオルの顔を、私は忘れられないわ。
それから二人がどんな話をしたのかはわからない。
だけど結果としてトオルは自ら命を絶ってしまって、ジョシュア・ローレンは音楽の世界からも現実の世界でも姿を消してしまったわ。
噂で妻子は家を出て行ったと聞いて自宅を訪ねたけれど、彼は出てはこなかった。
今はどこでどうしているのかわからない。
あれから三年経った今でも、ジョシュア・ローレンとトオルのことはゴシップとして噂されているわ。
リンコ、ごめんなさい。
トオルは自分の口からリンコに話すと言ったけれど、私はあのとき、あなたにもっと早く話すべきだった。
恋人たちのことにしゃしゃり出るのはルール違反だと思って話すのを躊躇っていたことを、今、猛烈に悔いているわ。
もっと早くに話をしていれば、あなたたちに違う未来があったんじゃないかと考えない日は一日としてないの。
何度神様に懺悔してもトオルは戻ってはこないのに。
謝っても許されることではないわね。
でもどうしても許しを乞いたかった。
本当にごめんなさい。
いつもトオルとあなたに会っていた教会が、今年の冬に取り壊されることになったの。
クリスマスが過ぎた頃に取り壊されるらしいわ。
ずいぶん古い教会だから、改修工事も難しいそうよ。
取り壊される前に教会で最後のミサをするの。
リンコ、願わくばそこであなたのヴァイオリンの音色を響かせてはくれないかしら。
トオルへの愛を乗せたあなたの音色は、聴く人々の心にきっと届くはず。
トオルが命を賭してまで貫いた想いは醜聞なんかじゃない、たしかな強い愛だったこと、トオルへのあなたの愛の深さを、あなたの音色で響かせてほしいの。
あなたにヴァイオリンを取り戻してもらうことが、トオルへの私のせめてもの償いだと思っいるのよ。
トオルはいつも言っていたわ。
『凛子のヴァイオリンは天上の音色を奏でるんだ。
きっとその音色は世界中に鳴り響くようになるよ』
リンコ、ヴァイオリンを手に取って。
トオルが愛したあなたの天上の音色を、世界中に響かせてちょうだい。
ずいぶん長い手紙になりました。
戻ってきたら必ず私の店に来てちょうだい。
いつものを用意して待っているわ。
私は今もトオルとあなたを大切に思っています。
今でもあなたたちは私の光です。
愛を込めて。
アデリナ 』
読み終えた凛子の瞳には涙が溢れ、堰を切ったように頬を流れ落ちていった。
あのとき凛子はレディ・アデリナを激しく恨んでいたのだ。
透がレディ・アデリナに相談していたことは知っていた。
透に一体どんなことをアドバイスしたのだと、凛子は声を震わせながら吐き捨てたのだ。
レディ・アデリナだけではない、師匠として敬愛していたジョシュア・ローレンも、透本人にさえも深い憎しみを抱いていたのだ。
ーーこれ以上ない裏切り……。
透とは深い愛情で結ばれていると信じて疑わずにいた自分のおめでたさが情けなく、お互いに愛し合っていた透とジョシュア・ローレンの様子に何の違和感すら抱かなかった自分の幼稚さに呆れてものが言えなかった。
ーー私は彼らのどこを見ていたというの……。
心から愛していた二人の裏切りに、凛子は正常に考えることができなくなっていた。
愛していた分、その傷は大きく、深い。
この街には透との思い出がありすぎて息をすることもままならず、凛子はあんなに愛した透の亡霊から逃れるように日本に帰国したのだ。
その頃ちょうど知り合いが経営していた喫茶店をたたむという話があり、渡りに船とばかりに凛子はこの店を引き継いだのだった。
しかし今日この手紙を受け取って、苦しんでいたのは自分だけでないことを改めて痛感し、独りよがりな自分の幼い心を恥じた。
レディ・アデリナも、明日香も、ジョシュア・ローレンも皆それぞれに苦しみながら今を生きているのだ。
透との思い出とともに。
凛子は涙を拭うと戸棚から真っ白な華奢な作りのカップを取り出した。
今の自分は一度真っさらになる必要がある。
このカップのように白く、飾り一つない真っさらな自分にならなければ。
コーヒーとグラニュー糖、ウォッカをカップに入れて軽く混ぜると、泡立てたホイップクリームをそっと浮かべココアパウダーを振りかけた。
昔、馬車の御者が好んで飲み、『一頭立ての馬車』という意味を持つこのサロン・アインシュペンナーは、ウィーンではコンサートの合間によく飲まれていたりするポピュラーなカクテルの一つだ。
凛子はそのサロン・アインシュペンナーをゆっくりと口にした。
ウォッカとコーヒーのコクにホイップクリームの甘さが広がり、ほろ苦いココアパウダーがいいアクセントになっている。
レディ・アデリナのカフェで開かれていたコンサートの合間に、よく作ってもらって飲んでいた思い出の飲み物だった。
ーーリンコ、ヴァイオリンを手に取って。
レディ・アデリナの澄んだ声が耳の奥でこだまする。
ーートオルが愛したあなたの天上の音色を、世界中に響かせてちょうだい。
甘くほろ苦いサロン・アインシュペンナーを飲み干して、凛子は『運命の輪』の絵の前に立つ。
透が描いた鮮やかな『運命の輪』。
凛子の中にある『運命の輪』は過去に向かって回り続けていた。
未来へと回ればそこに透の姿はなく、凛子は透がもういないことを認めてしまうのが怖かったのだ。
でも、そうじゃないのかもしれない。
未来に向かっても、そこには透の存在が息づいているのかもしれない。
確かめる術はただ一つ。
『ヴァイオリンを弾いて、凛子』
「透……」
そのとき確かに透の声が聞こえて、凛子は『運命の輪』をじっとみつめた。
透と礼拝に訪れたあの教会がなくなってしまうという。
小さいけれど中のステンドグラスが素晴らしく美しく、その荘厳な光に神様を感じて何度も通った思い出の教会。
凛子は徐にヴァイオリンケースを開けた。
中にはストラディバリウスがその瞬間を待ち望んでいるかのように、艶やかな光を湛えている。
凛子は挑むように再び『運命の輪』の絵の前に立った。
裏切られても何をしても、凛子がどんなに透を憎んだところで所詮憎み続けることなどできはしないのだ。
「昔も今も、私はいつだって透には敵わないのよ」
凛子は苦笑いを浮かべながら呟き、携帯電話を取り出した。
「明日香?……お願いがあるの」
凛子の中の『運命の輪』が、光の方へ回り始めた瞬間であった。
完
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)