こんばんは(*´∀`*)
まーたるのショートストーリー、お楽しみいただけたら幸いですヽ(*^ω^*)ノ
『ミッドナイトカフェ・WHEEL of FORTUNEにようこそ』
episode 1 「アイリッシュコーヒー」
梨紗は行くあてもなく歩いていた。
自分が今どこを歩いているのかさえわからずに、それでもなお歩みを止めることなく、ただひたすらに前へと進んでいた。
慎太郎の部屋を飛び出したときには薄闇が広がり始めていたが、今や漆黒に塗り替えられた空にはネオンの灯りがきらきらしく揺れている。
ほんの数時間前までは慎太郎の隣で幸せに包まれていたというのに、どうして今、夜の街をこうして彷徨っているのか梨紗にはさっぱりわからなかった。
「……だからごめん……。
オレは梨紗とは結婚できない」
慎太郎の苦渋に満ちた横顔がひどく悲しげに見えて、まさに青天の霹靂というべき出来事を梨紗は受け止めることができず、気がついたら部屋を飛び出していた。
二年の交際期間を経て慎太郎からのプロポーズを受けたのは、ちょうど半年前のこと。
緊張の中お互いの両親への挨拶を済ませたときは、二人顔を合わせてホッとした笑顔になったものだった。
これからの二人のライフスタイルを考えて、春には転勤になるかもしれないという慎太郎に合わせて、梨紗は勤務先の図書館を辞めたばかりだ。
本が好きで本に囲まれた仕事がしたいと司書の資格を取り、やりがいを感じながら働いてきた居心地のいい職場だったのだ。
ーーこんなことなら……。
こんなことなら、と梨紗は唇を噛みしめる。
ーーこれから、どうしよう……。
一抹の後悔と不安が苦く梨紗の中に広がってゆく。
一方で慎太郎との甘く楽しい時間が蘇ってきては、ズタズタに心を刻まれるような痛みが襲いかかり、それから逃れるように梨紗の足取りはどんどん速まっていった。
「もう、歩けない……」
ネオンの灯りが途切れたところで、梨紗は傍らの自動販売機にもたれかかった。
ぼろぼろになった心をあらわにするように、自動販売機の白い光が冷たく梨紗の顔を照らし出す。
ーー私、何やってるんだろう……。
腕時計の針は20時を回っていて、かれこれ2時間以上街を歩いていたことになる。
一度立ち止まってしまうと、もう動けなかった。
生温い風が吹き始めたが、梨紗は頬にかかる髪を払うことなく、ただ立ち尽くすだけであった。
千々に乱れた心をどうすることもできない梨紗であったが、ふとずらした視線の先にコーヒーカップの絵の描かれた小さな看板の灯りが見えて、梨紗はまるで引き寄せられるように痛む足を引きずりながら近づいて行った。
大通りから少し入った路地にひっそりとある喫茶店。
看板にはコーヒーカップとワイングラスの絵が描かれてあった。
『WHEEL of FORTUNE』
変わった名前の喫茶店だと思ったが、痛む足を休めてコーヒーを飲みながら、乱れた心をまず落ち着かせようと思った。
ーー落ち着いて考えよう……。
古めかしいドアをそっと開けると、コーヒーの香ばしい香りが梨紗を包み込むようにふわっと広がった。
オレンジの灯りが店内を温かく照らし、ヴァイオリンの音色が優しく流れている。
それだけで梨紗はホッとしてしまって、思わず頬に一筋の涙がこぼれた。
「いらっしゃいませ」
静かな声がして梨紗は慌てて涙を拭う。
オーナーだろうか、カウンターの中に美しい佇まいの女の姿があった。
「あの、まだコーヒー、飲めますか?」
おずおずと梨紗が訪ねるとオーナーは静かに微笑んで、
「どうぞお座りになって。
閉店までにはまだ時間はありますから」
カウンター席に座った梨紗は、目の前の棚に数多くの酒の瓶が並べてあるのに驚いた。
よく見るとワインセラーも設置されており、こちらにもぎっしりワインが並べられている。
そういえば入り口の看板には、コーヒーカップの横にワイングラスが描かれてあったことを思い出した。
「このお店、バーなんですか?
てっきり喫茶店かと……」
「ここは18時からはお酒も飲めるんですよ。
それまではコーヒーと焼き菓子だけの喫茶店ですけど」
オーナーは微笑みを浮かべたまま、熱いおしぼりと薄く切ったレモンを浮かべた水のグラスを梨紗の前に置いた。
おしぼりの熱さが梨紗の冷えた指先にじんわりと沁み込んでゆく。
ーー梨紗は本当に冷え性だなぁ。
一年中冷え性でひんやりした梨紗の指先を包むように、ゴツゴツした大きな掌でさすってくれた慎太郎の優しい笑顔を思い出し、梨紗の視界が再び滲んできた。
慌てておしぼりを目に当てた梨紗にオーナーがゆっくりと声をかける。
「春めいてきたとはいえ、夜はまだ冷えますね。
まずはコーヒーでもいかが?」
おしぼりから少しだけ目を覗かせた梨紗に微笑みながらオーナーはカップにコーヒーを注ぎ、銀の皿に小さな焼き菓子を二つ乗せた。
「いただきます……」
どうぞ、と目だけで言い、オーナーはカウンターの隅にある椅子に腰かけてワイングラスを傾けた。
コーヒーは驚くほど優しい香ばしさで口当たりが良く、その温かさが身体中に染み渡り、凍りつきでもしたかのように硬くなっていた心が溶けていくようだった。
少しずつゆっくりとコーヒーを飲みながら、梨紗は今日の出来事を振り返ってみる。
数時間前に慎太郎に突きつけられた突然の婚約破棄。
しかし今思い起こすと、それは突然でもなかったのかもしれない。
お互いの両親に挨拶をして結婚の許しを得たものの、結婚式の日取りや会場、新婚旅行の話がなんとなく進まずにいたのは慎太郎の仕事の忙しさからだと思っていたけれど、慎太郎の心の中の葛藤はすでにその頃から始まっていたのだろう。
二人で会っていても結婚式の話になるとまだ焦らなくていいよ、ゆっくり考えようとか、残業なんだと言ってなかなか会えない日が続いていたのだ。
「……どうして?理由は何なの?」
動揺する気持ちを悟られまいと梨紗はつとめて冷静に言ったつもりだったが、声が震えてしまうのはどうすることもできなかった。
「……虚しいんだ。二人でいる方が、ずっと虚しい」
「虚しい?」
「わからない?」
射抜くような慎太郎の視線を真っ正面から受け止める意気地がなく、梨紗は唇を噛みしめたまま下を向いた。
「梨紗のこと、最初はオレのことを立ててくれて、奥ゆかしい控えめな子だと思った。
相手の気持ちを考えることができる子だ、思いやりのあるそんな子と結婚できたら幸せだろうって思ったんだ」
慎太郎は真っ直ぐに梨紗をみつめ、静かに言葉を続ける。
「でもデートに出かける場所も、食事も、映画や服を選ぶのだって、慎太郎の好きなものでいいよ、慎太郎の選ぶものなら間違いないよって」
「ほんとにそう思ったんだもの!
慎太郎に選んでもらった方が嬉しいし、私はそれが良かったから!」
「オレは嫌だ!」
慎太郎の張り裂けそうな声に梨紗はビクッと身体を硬直させた。
「どこに行こうか、何食べようか、どうしてオレ一人で決めなくちゃいけないんだ?
二人で過ごす時間だろ?」
「それは慎太郎が決めた方が……」
「楽だからだろ?」
「楽……?」
梨紗は慎太郎の言っている意味がわからなかった。
自分のわがままで慎太郎が気を悪くしないように、機嫌が悪くならないように気を遣って考えていたというのに、それは単に梨紗が楽をしたいからだと慎太郎は言う。
「誰かが決めたことに乗っかるのは楽だもんな。
自分が決めたことに責任を持たなくていいんだから!」
吐き捨てるように言ってから慎太郎は大きく息をついて、それから梨紗をまっすぐにみつめた。
「オレは人生を二人で歩いて行きたいんだ。
些細なことでも二人で決めて、二人で一緒に家庭を作り上げていきたい。
奥さんには後ろについて歩くんじゃなくて、いつも隣にいてほしい」
ゆっくりと顔を上げた梨紗の目に、苦痛に歪んだ慎太郎の顔が映った。
いつからだろう。
いつもあたたかな笑顔を浮かべていた慎太郎が、いつからこんなに苦しそうな表情を見せるようになっていたんだろう。
それを今の今までわからなかったなんて。
「楽をしようだなんて、そんなこと一度も思ったことなかった……」
梨紗はかすれた声で言い、手を伸ばしそっと慎太郎の頬に触れた。
「梨紗の指は冷たいな」
以前ならそう言ってそのあたたかい掌で梨紗の指を包んでくれたのに、慎太郎は苦しげな表情のまま、梨紗の手をそっと下におろす。
「慎太郎に私の人生を全部背負わせようだなんて思ってない!
ただ私は一緒にいてけんかになるのは嫌だったし、慎太郎に機嫌を悪くしてほしくなかっただけよ!
だから……!」
「そうだよな、けんかもしたことないんだよな、オレたち」
付き合っていた二年間、そしてこの半年間、二人は一度もけんかをしたことはなかった。
些細な言い争いでさえなかったのだ。
けんかはしないに越したことはないし、側から見れば仲の良いカップルだと羨ましがられるに違いない。
「けんかは嫌だよ。
だけどけんかにさえならないことはもっと嫌だって気がついたんだ。
悲しいことだって、気がついたんだ」
お互い口をつぐみ、訪れた静寂の中に時計の針の音がやけに響いて聞こえた。
二人で選んだシルバーの時計。
「……もう私は慎太郎の隣にはいられないの?」
梨紗の言葉に慎太郎は唇をキュッと引き締めた。
「悪いところはちゃんと改めるわ。
慎太郎のいいように私、変わるから!」
「梨紗は何にもわかってない!
……わかろうとしないんだな」
慎太郎は悲しそうに微笑んで、すがりつくような梨紗の視線を振り切るように横を向いた。
「オレ、好きな人がいるんだ」
慎太郎の突然の告白に、梨紗の目の前が一瞬真っ暗になった。
ーー婚約者がありながら好きな人……?
梨紗の頭の中は完全に混乱していた。
「婚約者の私がいるのに?
いつからなの?どうして……?」
梨紗の方に向き直った慎太郎は、太々しいともとれる表情をそのままに口を開く。
「梨紗とのことを相談してた同じ会社の子で、一緒にいるとすごく楽しくて安心するんだ。
婚約者の梨紗がいるけど、それでもオレは彼女とずっと一緒にいたいと思ってしまったんだ」
一緒にいると楽しくて安心する。
ならば私は慎太郎を不安にさせていたというのか。
今の今まで、慎太郎を不快で不安にすることしかできなかったというのか。
赤い糸で繋がれている運命の人だと思った大切な人……!
こんなに想っているのに……!
「彼女は自分の人生を自分の足でしっかりと歩いてる人なんだ。
二人で並んで歩いてくれる人だから……」
蒼白になってゆく梨紗に慎太郎は無情に言い放つ。
「……だからごめん。
オレは梨紗とは結婚できない」
梨紗の耳に聴き慣れたヴァイオリンの曲が聞こえてきた。
クラシックが好きな慎太郎の影響で聴くようになったヴァイオリンの音色は、しだいに梨紗の心を満たし癒してくれるようになり、今では日常に欠かすことのできない大切なものになっていた。
「この曲をご存知?」
顔を上げるとオーナーがカップにあたたかいコーヒーを注いでいる。
「『二つのヴァイオリンのための協奏曲・ニ短調』
二つのヴァイオリンがまるで音を編むように奏でていくの。
天上の楽の音……」
オーナーは目を閉じてその天上の楽の音に耳を澄ます。
「サービスよ」
にっこりと微笑んで、オーナーは生クリームが浮かんだカップを梨紗の前に置いた。
「これは……?」
「飲んでみて」
オーナーに促され梨紗は一口飲んでみる。
口の中に生クリームと砂糖の甘さとコーヒーの香ばしさ、そしてもう一つ……。
「アイリッシュコーヒーっていうのよ」
「アイリッシュコーヒー?」
アイルランドで生まれた飲み物でアイリッシュウィスキーをベースに、コーヒー、砂糖、生クリームを加えたカクテルの一種であるアイリッシュコーヒー。
端麗な見た目の美しさとウィスキーの深み、コーヒーの香ばしさ、砂糖と生クリームのほのかな甘みが絶妙に絡み合った飲み物である。
「……おいしい!」
初めて口にするアイリッシュコーヒーに梨紗は目を輝かせた。
普通のコーヒーとは全く違う、甘味と苦味が心地よく混ざり合うこの不思議な飲み物を、梨紗は噛みしめるようにゆっくりと飲み干した。
ふうっと息をつくと、酒の瓶の棚の横に架けられた額に自然と目が吸い寄せられていった。
重厚な造りの額には大きな車輪のような絵が飾られており、鮮やかな色合いが美しいその絵の右下に流れるような筆跡で、
『TO RINKO FROM T 』
と描かれてあった。
「……りんこさん、とおっしゃるんですか?」
おずおずと言う梨紗にオーナーは少し驚いたように、でも嬉しそうに頷いた。
「そう、凛子。
凛とする子っていうのよ」
そう言ってクスクスと笑う凛子はとても嬉しそうだ。
「アイリッシュコーヒー、初めて飲みました。
いろんな味が混ざり合ってるのに、お互いを邪魔してないのがすごく不思議……」
「でしょう?
海外に住んでいた頃によく飲んでいて、とても思い出深い飲み物なの。
各々の存在を主張しているのに、他の邪魔をせず一つの味として確立している、ある意味理想的な飲み物ね」
「理想的?」
「人付き合いでもそうありたいと思わない?
自分の意見をしっかり相手に伝えながら、お互いを尊重して共に歩いていける。
そんな関係になれたら素晴らしいことだわ」
梨紗は空になったカップをじっとみつめていた。
ーー自分の意見を伝えて相手を尊重し、共に歩いてゆく……。
慎太郎が必要としていたのは、アイリッシュコーヒーのような存在だったのか。
たとえ言い争いになったとしても自分の意見をしっかり言い、その上でお互いの気持ちを尊重し合い、わかりあって共に歩んでいく道を慎太郎は歩きたかったのだ。
自分の意見を言って嫌われたくない、嫌われるくらいなら我慢すればいいんだと梨紗は思っていた。
でもそれではいくつもの味が混ざり合いながらも、深みある一つの味を出すアイリッシュコーヒーみたいに心が踊り出しそうな香ばしい道を歩くことはできない。
ーー慎太郎……!
梨紗の胸の中でアイリッシュコーヒーの温かな灯がほのかに灯るようで、今なら慎太郎の言いたいことがこんなにもよくわかるのにと梨紗は唇を噛みしめる。
しかしどのような理由であれ、婚約者がいるにもかかわらず他の女を選んだ慎太郎に、以前のような愛情を感じることは梨紗にはできなかった。
慎太郎への愛情と憎しみが梨紗の中に混ざり合い、絡み合っていった。
険しい表情になってゆく梨紗をみつめていた凛子が、徐に口を開いた。
「この絵が何かご存知?」
額に飾られた車輪のような絵。
「……いいえ」
見たこともないその絵を梨紗はぼんやりと眺めた。
色鮮やかな大きな車輪の上にスフィンクスのような者がおり、四隅には天使や羽がある動物が描かれた不思議な絵だ。
「『運命の輪』というの」
「『運命の輪』?」
油絵なのだろうか、大胆なそれでいてすごく繊細なタッチで描かれたその『運命の輪』を、凛子はとても愛おしそうに眺めている。
「タロットカードの中の一枚なの。
発見、大きな節目、幸運、転換期、サイクルといった意味があるわ。
私、このカードがとても好きで、お願いして描いてもらったのよ。
私の一番大切なものなの」
『TO RINKO FROM T 』、このTという人物に描いてもらったと言う凛子の横顔が切なそうに見えて、もしかするとTという人物は凛子の恋人なのだろうかと梨紗は思った。
しかし凛子の細い左手の薬指には、ダイヤなのか美しい指輪が光っていた。
人目につかないような路地にあり、夜にはアルコールも提供するという小さな喫茶店にいる凛子は場違いのように美しすぎて、ここはまるで小説から飛び出してきたようなシチュエーションだと梨紗は思った。
「幸運……。
それなら私にも幸運がやってきてくれるのかしら」
梨紗は少し自嘲気味にふふふっと笑った。
凛子の瞳がまっすぐに自分を射抜くように注がれて、梨紗は思わず息を呑んだ。
「『運命の輪』は自分が動かそうとしないと決して前には進まないものよ。
誰かが押そうとしても車輪は動かない。
車輪を動かすのは誰でもない、自分なの。
自分から動かなければ車輪は動こうとしないのよ」
他の誰でもない、自分自身の力でこそ初めて動く『運命の輪』。
慎太郎を失った今、自分には一体どんな力が残っているというのだろうか。
仕事も辞め、結婚も白紙になったというのに、『運命の輪』の車輪を動かす力がまだ残っているとでもいうのだろうか。
「彼女は自分の人生を自分の足でしっかり歩いている人なんだ」
ふいに慎太郎の言葉が蘇る。
ーー私、自分の足で歩いていなかったのかもしれない……。
慎太郎が言うように、無意識に楽な道を選んでいたのかもしれないと梨紗は思った。
慎太郎のためという口実の上で、自分の足で立つことを怖がって慎太郎に寄りかかりすぎていただけなのだと。
寄りかかられた慎太郎にしてみれば、何でも人任せに生きる女など魅力的でもなんでもなかったのだ。
「私、今日婚約破棄されてきたんです」
「……そう」
ややあって凛子は静かに頷いた。
「彼に嫌われたくなくて余計な言い争いをしたくなくて、思ってることを言うこともせずに全てを彼に委ねてきたけれど、彼はそれが苦痛で私とは正反対な女を選んでしまいました。
あまりにも悲しくて悔しくて、どうしようもなくて街を歩き続けて……。
それで歩き疲れてしまったとき、この店をみつけたんです。
このお店の灯りに、コーヒーの香りにすごくほっとした……」
梨紗の一言一言に、凛子はただ黙って耳を傾けている。
「凛子さんが出してくれたアイリッシュコーヒーを飲み終わったとき、彼から言われた言葉の意味がわかった気がしました。
私の『運命の輪』は動かなくて当たり前なんだと、それまでの私を恥ずかしく思ったわ。
自分の人生なのに自分の足で歩いていなかったんだから」
梨紗の頬に涙が伝い、もう隠れてそれを拭おうとはしなかった。
しばらくして甘い香りが漂い、梨紗の目の前に湯気を立てたホットミルクのカップが置かれた。
「お砂糖とはちみつが入ってるわ。
甘いホットミルクを飲むとすごく安心するの。
どうしてかしらね」
凛子は再びクスクスと笑い、そのあどけなさに梨紗もつられて笑った。
「彼との別れは辛いことだったけれど、あなたにとっては大切な経験だったのよ。
人生を変える貴重な経験をしたんだわ」
「人生を変える……?」
「自分の人生は自分の足で歩いていくものだってことを、彼はあなたに教えてくれたかけがえのない存在よ。
たとえもう同じ道の上に立てなくてもね。
そしてあなたは気がつくことができた」
「でも彼を失ったし、仕事も辞めてしまって……」
声のトーンがぐっと下がり俯く梨紗に凛子は優しく促す。
「さぁ、ホットミルクを飲んで」
甘く温かなミルクの優しい匂いが梨紗を包み込み、しょげ返っていた心にほんのりとした灯りがともるような気がした。
「彼もいない、仕事も辞めた。
でも代わりにあなたは自由を手に入れたわ。
このまま結婚していたら絶対に見ることのできなかった自由な世界よ。
今からどこにでも行ける、何にだってなることができる、次のステージに行く扉が開いてるの。
あなたは辛い別れを経験して、自分の人生は自分の足で歩くことが大切だと気がつくことができた。
そのまま気がつかずに過ぎていく人もいれば、気がついたとしてもそれを見て見ぬ振りをしてやり過ごす人もいる。
そんな人は自分の『運命の輪』を動かすことなく、不平不満の中に沈んでいくの。
でもあなたは誰に教えてもらったわけでもなく、自分で気がつくことができた。
もうあなたは『運命の輪』の車輪を自ら進める準備ができているということよ」
「私、『運命の輪』の車輪を動かせるんだ……」
梨紗は額の中の『運命の輪』をみつめた。
この大きな車輪をもう私は動かすことができる。
ならば、どこへ向かおうか。
梨紗はふと、カウンターに無造作に置かれてある洋書に目を向けた。
美しい湖畔にある古城が表紙の洋書だ。
本が好きな梨紗は日本の本を海外に紹介したり、海外の本を翻訳してみたいという夢があったことを思い出し、思い出した瞬間、長い間心の奥にしまわれていたその気持ちが梨紗の心を捉えて離さなくなった。
ーーまだ、挑戦できるかな……。
「凛子さん。
夢って、追えるかな。
今からでも」
「もちろん、追えるわ。
何歳になっても夢がある限り、諦めない限り追うことができるわ。
一度動いた『運命の輪』は、その気持ちがある限りずっと廻り続けるのよ」
凛子はやわらかな笑顔を浮かべて梨紗の肩にそっと手を置いた。
最初のコーヒー代だけでいいという凛子に、梨紗は飲んだ分の代金を払うと聞かず、結局全ての代金を置いて帰って行った。
婚約破棄をした元婚約者とはもう一度会ってしっかり話をしてから別れるのだという。
今度こそ自分の気持ちを隠さずに伝えるのだと言った梨紗の瞳に、もう頼りなさげな光の揺らめきは見られない。
未来へ向かって自分の道を歩き始めた梨紗の『運命の輪』が、力強く廻り始めたことを凛子は嬉しく思った。
「また来てもいいですか?
今度はおいしいお酒を飲みに」
ドアを開けて振り返りながら梨紗は言った。
「もちろん。
いつでもお待ちしているわ」
静かに微笑む凛子の言葉に、梨紗は心から安心したようにドアを閉めたのだった。
看板の灯りを落としドアの鍵を閉める。
店内の片付けを済ませてからカウンターでワインを飲むのが凛子のルーティンの一つだ。
カウンター席の灯りだけを点けると、そこは優しい孤独がたゆたう空間になる。
ワイングラスをゆっくり傾けながら、凛子は『運命の輪』をみつめた。
優しい、それでいて悲しみに満ちた瞳で。
「私の『運命の輪』の車輪は、あのときから今もずっと廻り続けているわ。
透……」
呟いてからワインを一息で飲み干すと、凛子は灯りを消して二階のプライベートルームに続く階段をゆっくりと登りながら、降り出した雨の音を聴きながら眠ろうと思った。
あの人のあたたかな温もりに似た、優しい雨音を聴きながら。
完
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)