まーたるのショートストーリー第三弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただければ幸いです(*´∀`*)
『ミッドナイトカフェ・WHEEL of FORTUNEへようこそ』
episode3 「カフェ・ロワイヤル」
昨夜から降っていた雨が止み、生暖かな風がゆるりと吹き始めた夜。
普段なら閉店間際までぽつりぽつりとある客足も、今夜に限ってはぱたりと止んでいる。
こんな夜は少し早く閉めようかと、凛子は窓の外を見て思った。
紺碧の空には月が明々と昇り、煌々とした月明かりが辺りを明るく照らしていた。
玄関脇のコーヒーカップとワイングラスが描かれてある小さな看板の灯りを落とし、中に入れようとドアを開けたとき、少し離れた場所にこちらを向いて立っている人影があった。
「一ノ瀬さん……?」
凛子が声をかけると初老の男がにこやかに現れた。
「ご無沙汰しています。
珍しい時間にお見えですね」
「凛子さんのコーヒーが飲みたくなってね。
今日はもう店じまいかい?」
「いいえ、どうぞ」
ゆったりとした微笑みを浮かべて凛子は一ノ瀬を店内に促した。
一ノ瀬はこの店の常連客の一人で、凛子が店をオープンした頃から通っている馴染みの客だった。
インテリア関係の会社を経営していて、若い頃はパリに住んで仕事をしていたこともあり、店内の装飾にもいろいろとアドバイスをくれたりもした。
歳の割には服装も居ずまいもスマートで、交わす会話も洒落ていた。
一ノ瀬がこの店を訪れるのはたいてい開店してまもなくの早い時間帯が多く、夜遅くに訪れることは初めてだった。
「悪かったね、店じまいするところに来てしまって。
ずいぶんとご無沙汰してしまった、凛子さんも元気そうで何よりだ」
熱いおしぼりで手を拭いながら一ノ瀬は言った。
「ありがとうございます。
こちらこそご無沙汰しておりました。
お客様も来ないし、今日は少し早く閉めようかと思っていただけなんですよ。
でもこの時間に一ノ瀬さんがお見えになるなんて珍しいですね。
今日はご自宅に真っ直ぐお帰りではないんですか?」
仕事が終わるとよほどの用でない限り自宅に直帰すると以前聞いたことがあり、愛妻家なんですねと言うと、そんなことはないよとはにかんでいた一ノ瀬だった。
「凛子さん」
一ノ瀬は凛子の顔をじっとみつめた。
そこには普段の人懐っこい一ノ瀬の姿はなく、何か覚悟を決めているような、静かな光がその瞳にたゆたうているのに凛子は少したじろいだ。
「凛子さんのコーヒーを飲むのは、今夜が最後になるんだ」
静かに言って一ノ瀬は微笑んだ。
「……どちらかへお引越しされるんですか?」
凛子の問いに一ノ瀬はゆっくりと頷く。
「パリへ」
「パリ?」
「会社も息子が継いでなんとか上手くやっているし、私の出番はほとんどなくてね。
もう若い者の時代だ、私はここらでゆっくりさせてもらうことにしたよ」
「そうですか。寂しくなりますわ。
でも奥様とご一緒にパリへ移住されるなんて素敵ですね」
凛子が差し出したグラスの中の水を飲み干して、一ノ瀬はふうっと息をつく。
その表情はどこか諦めたような、言い知れぬ寂しさを感じさせるものに見えた。
「いや、パリへは私一人で行くんだ」
凛子が少し戸惑っているのを楽しむかのように、一ノ瀬は普段の人懐っこい笑顔を浮かべた。
「凛子さん、今夜は私の話を聞いてくれるかね。
凛子さんと話すのも、これが最後になりそうだから」
そう言って一ノ瀬が話し始めたのは、若き日の恋の物語だった。
デザインの勉強のために単身パリへ渡った一ノ瀬は、小さなデザイン事務所に入りそこで勉強をし、様々な芸術に触れる日々を送っていた。
若き日に抱いた芸術への情熱は熱く、パリで本物の芸術というものに触れ、一ノ瀬は充実した毎日を過ごしていた。
「ヴァレリーは務めていた事務所の目の前にあった花屋の娘でね。
青い瞳が本当に美しい娘だったよ」
うっとりとしたように目を閉じた一ノ瀬の心は、半世紀前にもなる懐かしいパリの街並みに飛んで行っているようだった。
花屋の女主人であるヴァレリーの母親が事務所社長と旧知の間柄というので、毎朝事務所の中に飾る花をサービスしてくれていた。
その花を毎日届けてくれたのが娘ヴァレリーだった。
青い瞳が美しいヴァレリーは明るくて気さくな性格で、遠く日本から勉強に来ていた一ノ瀬にも分け隔てなく接してくれた。
最初は拙かった一ノ瀬のフランス語も、ヴァレリーと話すうちにぐんぐん上達していき、ほんの数ヶ月の間で日常会話も問題なく交わせるようになり、事務所社長やスタッフたちも一様に驚いたものだった。
「バスケットの中に色とりどりの花をたくさん入れて持ってきてね、事務所の窓際に飾って帰って行くんだ。
燦々と降り注ぐ朝陽に照らされた彼女は、まさにfee des fleurs(フェ デ フルール)だったよ」
「花の妖精……。すごくチャーミングな方だったんですね」
一ノ瀬はふふふっと小さく笑い、懐かしそうに目を細めた。
「とても華のある人でね、彼女が現れると途端にその場がパァッと明るくなるんだ。
だから社長に叱られているときなんか、今ヴァレリーが来てくれたらいいのにと何度思ったか」
当時を思い出しているのか、あははと大声で笑った一ノ瀬はややあって、
「私は彼女との約束を果たしに行こうと決めたんだ」
「約束ですか?」
それはどんな、と言いかけて凛子は口をつぐんだ。
それまで懐かしい思い出に浸っていた一ノ瀬の表情が、急に険しく変化していたからであった。
眉根がひゅっと険しく寄り、何か苦行に耐えているかのように唇を噛みしめている。
「私はヴァレリーを愛していた。
彼女も私を愛してくれて、私たちは結婚の約束をしていたんだ。
でも、私の家族がどうしても結婚を許してくれなかった。
外国人と結婚するなんてとんでもない、由緒ある一ノ瀬家の嫁が異国の人間だなんてとね」
一ノ瀬は憤慨したように言い捨てた。
一ノ瀬の父は有力な財閥や政治家とも懇意にしている名士で、代々医者や科学者といった者を輩出する名家であった。
大学卒業後、デザインの勉強をどうしてもやりたいと言った一ノ瀬に対して、父は三年間という期限付きで社会勉強の一環として渋々渡仏を許してくれた。
「私はヴァレリーなしでは生きていかれないほど愛していたから、なんとか家族の了承を得ようと躍起になったよ。
パリでの生活がヴァレリーのおかげでどれだけ鮮やかなものになったか、彼女の存在がどれだけ私を支え、癒し、力づけてくれたのかを伝え続けたんだ。
三年が過ぎてなおもパリに居続ける私に業を煮やした父は、母をダシに僕を強引に日本に戻してしまった」
「お母様を?」
「母は弟を産んでからというもの体調をずっと崩していてね、もう十年以上寝たり起きたりの生活だったんだ。
パリにいる間も母のことは気になっていたから、日本から母の容体が悪化したと連絡がきて私は慌てて日本に戻った。
またすぐパリに戻ってくるつもりだったから、とりあえず着替えだけ詰めた鞄を持ってね。
玄関で見送ってくれたヴァレリーのいつもの抱擁といつものキス……。
あれが最後だなんて、誰が思うだろうね。
ヴァレリーのあの優しい眼差しを、僕は今も忘れられずにいるんだ。
もう何十年も昔のことなのに、最近ではずっとあの笑顔が離れずに、まるで優しく私を責めているようで……」
一ノ瀬は少し苦しそうに喘ぎ始めた。
「一ノ瀬さん……⁈」
凛子は一ノ瀬の肩をグッと支え、顔色を伺った。
少し汗ばんではいるが顔色は悪くない。
「大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だよ……。
すまないね、少し興奮して喋りすぎてしまったよ」
「何かお飲みになりませんか?」
「うん、そうだね。
少し暑いから、アイスコーヒーをいただこうか」
凛子が差し出したアイスコーヒーを半分ほど一気に飲み、一ノ瀬はようやく息がつけたと言わんばかりの深い息をついた。
そして目の前にその存在感を放つ絵と凛子を交互にみつめ、おもむろに、
「君の『運命の輪』は、もう動き始めたのかね」
一ノ瀬の言葉が優しく、しかし刃のように鋭く凛子の心に突き刺さった。
「この店がオープンしてもうすぐ二年になる。
その間に君はもうこの大きな輪を動かすことができたかね」
一ノ瀬は若い頃から美術関係の仕事をしてきただけに、芸術品や絵画にも造詣が深い。
常連客として店に通うようになり、『運命の輪』の絵を見るなり目を丸くして、
「阿南透の作品がどうしてここに⁈」
一ノ瀬は少し興奮したように、その絵を食い入るようにみつめていたのを凛子は思い出す。
世界を股にかける新進気鋭の画家、阿南透は独特のタッチでその世界観を繰り広げると、芸術界でその稀有な才能が瞬く間に注目の的となった。
大胆に見えて実はものすごく繊細なその絵は、阿南透でなければ描くことはできないと言われ、加えて彼の端正なルックスも加わり絵画界を飛び越えた人気を博すようになっていった。
しかしあるときから阿南透は忽然とその姿を消してしまう。
自宅にも世界中にある彼のアトリエでもその姿を見ることはなかった。
そして姿を消してからわずか数ヶ月後、阿南透は42年の生涯を終えたのだ。
彼が最も愛したパリのアトリエの屋根裏部屋で。
「凛子さん」
一ノ瀬の声に凛子はハッと我に返った。
「……すまない。
立ち入ったことを訊いてしまったね。
気を悪くしないでくれ」
「……いいえ」
凛子は笑みを浮かべたが、どこかぎこちなくなっているだろうと思った。
「凛子さん」
少し声音を明るくして一ノ瀬は言った。
「カフェ・ロワイヤルをお願いしたいのだか、飲ませてくれるかね」
「王家のコーヒー」と言われ、かのナポレオンも愛したというカフェ・ロワイヤル。
コクのあるコーヒーとブランデーを染み込ませた角砂糖の甘味が、深みのある味とともに高貴なひとときを楽しませてくれる。
「あまりお目にかかることはないんだが、この店で飲むことはできるかね」
「もちろんですわ」
凛子はふわりと微笑んでカウンターの中で静かにコーヒーカップを選ぶ。
この店ではコーヒーの種類や時間帯、果ては天気の良し悪しによってカップも変えている。
さっぱりした口当たりのコーヒーには明るめの色を、コクがあり飲みごたえのあるコーヒーには少し落ち着いた色味のカップを、そして午前中の明るい時間には白を基調としたカップ、雨の日には気分が晴れやかになるような色をチョイスするのだ。
しばらくして凛子は飴色のカップを取り出した。
落ち着いた光沢を放つ深い飴色のコーヒーカップに、少しコクがあるコーヒーを注ぐ。
先が尖ってカップに引っ掛けられるようになっている、ロワイヤルスプーンという専用のスプーンをカップに掛けて、その上にそっと角砂糖を置いた。
静かで淀みない凛子の手さばきを、一ノ瀬は口元に笑みを浮かべながらじっとみつめている。
温めたブランデーをゆっくりと角砂糖の上からかけると、店内の灯りを絞った。
シュッという音とともにマッチに火をつけると、ブランデーが染み込んだ角砂糖に近づける。
角砂糖から青白い炎が燃え上がり、その幻想的光が揺らめくカップを凛子は一ノ瀬の目の前に差し出した。
「どうぞ」
一ノ瀬は青く揺れる炎をただみつめていた。
そこには感情の一切が消えてしまったような一ノ瀬の顔があり、青白い炎にぼんやりと浮かび上がるその表情はまるで幽鬼さながらに見えた。
凛子はその表情をそっと伺いながら、これから単身パリへ向かおうとしている一ノ瀬の心の中に、家族にも誰にも理解されない複雑な思いが渦巻いているのだろうと思った。
青白く燃える炎が消えるまで、一ノ瀬も凛子も口を開くことなく、ただその炎に見入っていた。
やがて炎は消え、辺りにブランデーの芳潤な香りがコーヒーの香ばしい香りとともに漂った。
一ノ瀬はロワイヤルスプーンの上で溶けた角砂糖をコーヒーに落としかき混ぜると、ゆっくりとそれを口にした。
「あぁ……」
感嘆の息とともに洩れた声には、心からの喜びが満ち溢れているかのようだった。
「……うまい」
一ノ瀬は目を閉じて呟き、ブランデーの優しい芳潤な味わいがコーヒーのコクと相まって、口の中いっぱいに広がっていくのを心ゆくまで味わっているように見えた。
幽鬼のような表情は消え失せ、一ノ瀬の頬は紅を差したようにほんのりと赤く染まっていた。
「パリにいた頃、ヴァレリーと一緒にカフェでよく飲んだんだ。
行きつけのカフェもここみたいに夜になるとバーになって、ブランデーやウィスキーを飲んだものだよ」
「パリでは思い出のカフェに行かれるご予定ですか?」
凛子の問いに一ノ瀬は肩をすくめた。
「まずはヴァレリーに会うことが先決だな。
今はどうしているだろう……。
もし会えたのなら、私を許してくれるだろうか」
寂しげに微笑みながら一ノ瀬はコーヒーを飲み干した。
「凛子さん。ありがとう。
最高のカフェ・ロワイヤルだった」
凛子も静かに微笑みを返しながら頷いた。
「最期のときはお互いの温もりを感じながら眠りにつこう」
「えっ……?」
「ヴァレリーとの約束さ。
私はその約束がまだ効力を持っていると信じてるんだ。
彼女はきっとあの場所にまだいるはずだから」
あの場所とはどこなのかを訊ねようとしたとき、カラン、とドアが開く音がして、スーツ姿の男が静かに現れた。
「こちらにいらしたのですか」
男は一ノ瀬と凛子を交互に見ながら静かに言った。
「探しましたよ」
「すまないな。
こちらは凛子さん、この店のオーナーだ。
うちの会社も何かと世話になっているからよく覚えておくといい。
こちらのコーヒーは絶品だぞ」
この男は秘書でねと凛子に言い、ニヤリと笑いながら一ノ瀬は男を振り返ったが、男は眉ひとつ動かすことなく立ち尽くしている。
「俊介はまだ会社なのか?
明日には父親が渡仏するというのに顔も見せんとは薄情なやつだ。
……まあ、私も言えたぎりでもないがね」
凛子はそう言う一ノ瀬を見つめる男の切なげな表情に、どことなく違和感を覚えた。
「車を付けてあります。
明日に障りますので、そろそろお戻りを」
男はそう言って先に店を出た。
「無愛想な男ですまないね。
根はいいやつなんだが」
「いいえ。
渡仏前でお忙しいのにおいでくださって、本当にありがとうございました」
「凛子さん」
一ノ瀬は凛子の手を両手で包むように握り、
「私はね、本当は怖いんだ。
何もかもが消え失せているんじゃないかと思ってしまう。
どんな結果であれ、それでも私は今まで錆びつかせていたこの『運命の輪』を動かしに行くよ。
自分の心に正直になりたいんだ、我儘だと、人でなしと言われても、最期は自分に正直でありたいんだ」
一ノ瀬の瞳は心なしか潤んでいるように見え、凛子も思わずその手を握り返していた。
皺が目立つ一ノ瀬の左手の薬指には今までつけていた結婚指輪はなく、その痕が薄っすらと残っているだけだった。
「凛子さんも、もういい頃合いじゃないかね。
君は『運命の輪』を一度止めてみるべきだと思うよ」
凛子はハッとして目を見開いた。
一ノ瀬の視線は深い慈愛に満ちていて、凛子の泡立った心を包もうとしている。
「君の『運命の輪』は、もう止まったほうがいい」
そう言って一ノ瀬はもう一度凛子の手を強く握り、ゆっくりと出て行った。
一ノ瀬の言葉が頭の中をぐるぐると回り、凛子はカウンターの椅子に身を投げるように座った。
目の前には鮮やかな『運命の輪』。
一ノ瀬には凛子が回している『運命の輪』の儚さが見えていたのだろうか。
ーー透……!私は、あなたを……!
凛子がきつく目を閉じたとき、ドアが開き再び一ノ瀬の秘書が現れた。
「……お忘れ物ですか?」
凛子はカウンターを見回した。
「父がお世話になりました」
唐突な男の一言に凛子の表情が強張る。
「一ノ瀬俊介といいます」
「あの……」
差し出された名刺を受け取りながら訳がわからないといった凛子を見て、俊介は少し寂しそうに笑った。
ーーあっ、一ノ瀬さん……。
俊介の微笑みは父親である一ノ瀬によく似ていて、ついさっき感じた違和感はこのことだったのかと凛子は思った。
「父は僕を秘書だと思っているんです。
母のことは家に来ているお手伝いさんだと」
「一ノ瀬さん……」
「父が認知症だと診断されたのは三か月ほど前になります。
その前から会話がだんだん噛み合わなくなり、家族のこともわからなくなり始めていました。
家を出てパリへ行くと言い出したのはそのときからです。
家族のこともわからなくなった父が覚えているのは、ヴァレリーという女性とあなただけでした」
俊介はきゅっと唇を噛みしめた。
「医者はゆっくりと記憶が昔に遡っていって、それに伴って体調もゆっくりと変化してゆくだろうと言いました。
今父は健康体で、身体の異常は何一つとしてないんですけどね」
「パリに行かれるというのは……」
「父の中ではパリに行くことになっているんでしょう。
でも明日父が行くのはパリじゃない、郊外にある施設です。
おそらくもう出ては来れないと思います。
こちらのことは病気になる前に父からよく聞いていました。
心に染みる味わいのコーヒーと、素敵なオーナーがいるんだと。
一度、父と一緒にコーヒーを飲みたかったけれど、こんな形で訪れるなんて」
俊介はちょっと笑って、
「凛子さん、ありがとうございました。
父はこちらで心から安らいでいたのでしょう。
だからこそあなたを忘れずにいたんです。
父が最後にこちらのコーヒーを飲むことができて、本当に良かった。感謝します」
俊介は一礼して凛子を真っ直ぐにみつめた。
一ノ瀬によく似た優しい瞳が悲しそうに揺れている。
「父が明日向かう施設は、昔父が暮らしたパリの風景に似ているんだそうです。
パリのアパルトマンから見えた風景が窓から見えると、父はとても喜んでいました」
「パリの風景に……」
「父を施設に入れて薄情な息子だと思いますか?」
俊介は少し挑みかかるような視線を凛子に向けた。
「恋い慕う女性とともに生きると決めた父を、母はどうしても許すことができないんです。
病気だからとはいえ、いや、だからこそ許すことができないんだ。
病気の前では建前も何も関係ない、ただ真実だけが突きつけられるのだから」
凛子はそっと視線を足元に落とした。
決して表に出さずにきた、心の奥底に秘めていた夫の若き日の恋心が病気によって露わになったときの妻の心情はいかばかりだっただろう。
一ノ瀬の妻には会ったことはないが、控えめで大和撫子と呼ぶにふさわしい、おとなしやかな女性だと一ノ瀬から聞いたことがあった。
夫を愛し、長年信じて連れ添ってきた自分を全て拒絶されたような絶望感が一ノ瀬の妻を襲っているのではないか。
人生の最終章の幕が上がったばかりの、今、このときに。
ーー今までの自分の人生は一体何だったの……。
見たこともない一ノ瀬の妻の青白い横顔が凛子の脳裏に浮かんだ。
一ノ瀬が幽鬼のような表情でみつめていた、カフェ・ロワイヤルの青い炎にも似た愛情と憎悪が入り混った横顔が。
「……薄情だなんて思いませんわ。
それはご家族にしかわかり得ないことですから。
ただ私は、この先一ノ瀬さんが心穏やかにお過ごしになられることをお祈りするだけです」
凛子の微笑みに俊介はホッとしたように息をついた。
「ヴァレリーという女性は十年前に亡くなっていました。
独身だったそうです。
もしかしたら父を……父が迎えに来ることをずっと待っていたのかもしれませんね」
コーヒーの代金をカウンターに置き、それでは、と一礼して俊介はドアの外に消えた。
エンジンのかかる音がして、黒塗りの車が通り過ぎていくのが窓からかすかに見えた。
凛子は椅子に座り目の前の『運命の輪』をみつめた。
鮮やかな色で描かれた大きな輪。
「君は『運命の輪』を止めるべきだ」
一ノ瀬の声が蘇る。
「君の『運命の輪』は、もう止まったほうがいい」
「透」
絵の右下に描かれたイニシャル『T』の文字がぼやけて見え、いつの間にか凛子の頬に涙が流れ落ちていた。
あの日、突然目の前から消えてしまった最愛のひと。
叶わぬ恋心に押し潰されて自ら命を絶たなければならなかった、可哀想で残酷な愛しのひと。
透のいない世界は凛子にとってモノクロの世界でしかなく、日常は夢と現実とがあやふやに交差する世界でしかなかった。
ーー透のいない世界は夢。
私はこれからもその夢を見続けよう、決して醒めることがない夢に生きよう……。
凛子の『運命の輪』は光に満ちた未来ではなく、深い哀しみの色に満ちた過去に向かって回り始めたのだ。
凛子は深い藍色のカップを取り出してロワイヤルスプーンの上の角砂糖に火をつけた。
ブランデーが染み込んだ角砂糖の青白い炎は、先程の一ノ瀬のときと違ってとても暗く見えた。
一ノ瀬はこれから一番美しい思い出の日々を、記憶の中でヴァレリーとともに生き直すのだ。
側から見てたとえそれが幻の世界だったとしても、一ノ瀬にはそれが真実であり、誰にも邪魔されない二人だけの至福の日々に他ならない。
凛子はそんな一ノ瀬を羨ましく思った。
そのときブブブ、とメールが届いたことを知らせる音が鳴り、携帯のディスプレイが明るく光った。
『凛子さん、生きてる⁉︎
明日、彼女とコーヒー飲みに行くね!
お菓子、めっちゃ食べるからヨロシク!』
やたらビックリマークをつける恭平のメールに凛子はふっと笑い、救われた気分で息をつく。
『運命の輪』を止めてしまうことは、透のいない世界を生きるということだ。
今はまだその世界に踏み出す気はなく、透との思い出をただの思い出として懐かしむ気もさらさらなかった。
ーー私の『運命の輪』は私だけが動かすことができる。
たとえそれが逆回りだとしても、私は私が望む方向へ回していく。
「透、私の『運命の輪』はずっとあなたに向かって回り続けていくわ。
……馬鹿だなって笑うかしら」
スプーンに溶けた角砂糖を溶かして、揺らめくブランデーの香りを吸い込んでから、凛子はゆっくりとコーヒーを口にした。
香ばしいコーヒーに優しいブランデーが甘く囁くように口の中に広がってゆく。
『凛子』
透の澄んだ声が聞こえたような気がして、凛子は『運命の輪』の絵をみつめた。
鮮やかな色はあのときのままで、同じように自分の心もあの当時のまま何一つとして変わっていないことに、凛子は言いようもない安心感を抱いて立ち上がった。
ーー透がいる世界こそが私の生きる世界。
『運命の輪』を止める必要など何もない、そう思った凛子の表情はどこか晴れやかで、明日嬉々として彼女とここに現れるだろう恭平のために焼き菓子を作る準備に取り掛かった。
完
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)