まーたる日記

米津さんLOVE❤️のブログ初心者です(^з^)-☆見た目問題当事者の視点から「見た目問題」について綴るとともに、まったり日常で思うことを書いていきます(*´꒳`*)よろしくお願いします(*´∀`)♪

祈りの日に思うことーー想いは長崎の空に。

こんばんは(о´∀`о)

 

今日も暑い一日でした❗️

 

早朝からもう暑くて、76年前の今日も晴れていたのかなと、昇る朝陽を眺めながら思ったまーたるです。

 

長崎生まれのまーたるにとって、今日は特別な日。

 

8月9日は長崎の原爆の日です。

 

両親は被爆者で私は被爆2世になります。

 

私の実家のある町は市内ですが爆心地から離れていて、父の実家も山に遮られていて無事でした。

 

原爆が落ちたとき、両親ともまだ幼児ではっきりとは覚えていないというものの、屋根に登って修理していた近所のおじさんが突然襲ってきた爆風に吹っ飛ばされた話や、翌日市内を歩いた祖父が見た崩れてしまった数多くの建物、黒焦げに炭化してしまった人の話など、当時の話を聞くことがありました。

 

私が子どもの頃、核病院と呼ばれている病院があり、そこに親戚のおばさんが入院していました。

 

母と一緒に時々お見舞いに行くと、ベッドの上で笑いながらようきた、ようきたと迎えてくれました。

 

4人部屋の病室は大きな窓から降り注ぐ太陽の光ですごく明るくて、開け放たれた窓から夏のむあっとした風が入ってきたのを今でもよく覚えています。

 

パッと見、おばさんは特に病人とは思えない感じでしたが、後から聞いた話では被爆した後遺症に苦しめられていたということでした。

 

高校生まで長崎に住んでいたまーたる、家族以外でもいろんな方々から戦時中のこと、原爆が落ちた日のことを聞く機会がすごくありました。

 

長崎に住む学生は8月9日は登校日、学校で原爆集会があります。

(遥か前のまーたるの学生時代のことですが、おそらく今もあるのだと思います)

 

戦争と平和について、原爆の悲惨さを講話で聞き、投下時刻の11時2分には原爆の犠牲になった数多の尊い御霊に黙祷を捧げ、最後に原爆の歌を歌うのです。

 

『原爆をゆるすまじ』『夾竹桃のうた』という歌をよく覚えています。

 

子どもの頃から戦争、原爆が身近にあったことから、まーたるは恐ろしいというよりも、あぁ、人間は人間をこんな凄まじいやり方で痛めつけることができるのだと、どこか冷静な目で見ることができていたように思います。

 

長崎市内にある原爆資料館、今はリニューアルされましたが、昔は建物自体が暗くて中に入るとおどろおどろしい雰囲気がすごくて、結婚前に一緒に長崎に来た夫は怖がって入りませんでした。

(作り話じゃなくて実際にあったことだから絶対に嫌だと、今も入りませんσ(^_^;) )

 

子どもたちは3年前帰省したときに平和公園原爆資料館を訪れ、自分の目で耳でその悲惨さと平和の大切さを学びました。

 

私から話は幾度となく聞いていたけれど、実際に訪れてみると、改めて思うことがあったようです。

 

そう、これは作り話じゃなくて実際に起こったこと。

 

人間が人間の心を持てなくなってしまった果てに起こった、誰が何と言おうと許されざる出来事です。

 

暑い夏の日、11時近く、お昼のしたくを始めたお母さんもいたでしょう。

 

学校や職場から帰宅途中の人々、お店で買い物する人、砂埃を上げて楽しそうに走り回る子どもたちもいたでしょう。

 

現在の平和公園上空で原子爆弾『ファットマン』がさく裂するその一秒前まで、この先もずっと当たり前に続いていくことを寸分も疑わなかった人々の営みは、閃光とともに一瞬にして消えてしまったんです。

 

その瞬間をもちろん私は知ることはできないし、被爆された方々の苦しみを実際に体験することはできません。

 

でも想像すると身が切り裂かれるくらいに苦しくて、悲しくなります。

 

 

『もう人間じゃのうなってしまうとよ』

 

 

『原爆はもう繰り返したらいかん、絶対に戦争したらいかんばい』

 

 

『戦争はなーんもよかことはなか。

 

だいにも(誰にも)よかことはなか。

 

人間のすることじゃなかとよ』

 

 

実際に聞いた被爆された方々の声は、今でもずっと、これからもずっと私の心にあり続けます。

 

今日は仕事でしたが、11時2分、私は黙祷させていただきました。

 

自宅にいても街中を歩いていても、バスや電車に乗っていても、サイレンが鳴り響く1分間は立ち止まりみんな黙祷を捧げます。

 

もう二度と核爆弾を使わない世界、核爆弾はもう長崎で絶対に最後にするという平和への強い想いを抱いて、私はこれからも平和の声をあげていきたいと思っています。

 

被爆者の方々も高齢化され、あの日のことを知る人々が年々減ってきています。

 

その方々からあの日の真実を受け継ぎ、そして次世代に伝えてゆく。

 

それが長崎に住まう方々、そして長崎に生まれた私の使命であると思います。

 

 

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長崎に続く空に昇る朝陽。

 

犠牲になられた尊い御霊に想いを馳せ、平和な世界を願い創り上げてゆくことを誓った早朝でありました。

 

 

 

 

 

 

最後まで読んでくださりありがとうございます

(*´꒳`*)