まーたる、ショートストーリーを書いてみた第21弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´꒳`*)
青の更紗と金時計シリーズ
「トゥオネラに眠るカリヨン」
「一体どういうことなんだ!」
激しい怒気を含んで吐き捨てるように叫んだ長の声に、グレイスは持っていたティーカップを危うく落としそうになった。
見ると長は息も荒く顔を真っ赤にしていて、普段の陽気さは欠片も見当たらない。
楽団員たちは触らぬ神に祟りなしとばかり自分たちにあてがわれている部屋へと散り散りに逃げて行って、広間には怒りがどうにも収まらない長、やれやれというように肩をすくめている長の妹サリヤとグレイスだけになっていた。
小さいが豊かな公国のとある街には昨日到着し、その足で楽団の当座の拠点となるこの屋敷へ入った。
屋敷は街の有力者所有のもので広大な敷地に建っていた。
街全体はこじんまりとしているものの歴史的建造物がそこここにあり、まるでタイムスリップしたかのような不思議な感覚に陥る街並みにどこか儚さを感じるグレイスであった。
「ねぇ、長は何をあんなに怒っているの?」
空にしたティーカップをテーブルに置き、グレイスはそっとサリヤに囁いた。
サリヤはため息をつくとチラリと長を見やりながら、
「明日のステージがどうやら流れるらしい」
「ええ⁉︎
ステージが流れるですって⁉︎」
思わず素っ頓狂な声を上げたグレイスを睨みながら長がキッと振り返った。
「依頼があったから来たというのに、そんな依頼はしていないというんだ!
楽団宛てにちゃんと手紙が届いているのに!
それなのに依頼はしていないというんだぞ!」
「依頼していない?」
グレイスが所属する楽団は世界中を回り、少しずつではあるが名も知られてくるようになっていた。
楽団の評判、特に踊り子グレイスの美貌と優美な歌声の評判は口から口へと伝わって、ぜひ来てほしいという依頼は後を絶たない。
今回もいつもと同様にパーティーでぜひ披露してくれないかという依頼を受けてやって来たというのに、当の依頼主に連絡してみるとそんな依頼はしていないのだという。
楽団の移動だけでも多額の旅費がかかるのだ。
一つのステージがなくなることは多大なる損失であり、楽団にとって思う以上に痛手なのである。
「これからビートリー卿の屋敷へ行ってくる!
どういうことか説明してもらわなければ納得いかん!」
怒りに震えながら出て行く長のあとをサリヤは慌てて追いかけ、グレイスに一緒に来いと目配せした。
あんなに怒っていては冷静に話すこともできないだろうと思いながら、ふうっとため息を洩らしながらグレイスもあとを追った。
街を一望できる小高い丘の上に建つビートリー卿の屋敷に三人が着いたとき、ちょうどビートリー卿が馬車に乗り込むところであった。
怒りが収まらない長がズカズカと馬車に近づくと、従者が慌てて駆け寄った。
「私どもはこちらの御当主よりお招きにあずかった旅の楽団の者です!
ビートリー卿にお目通り願いたい!」
若い頃は妹のサリヤとともに舞台で歌っていただけあり、長の声は大きく響く。
すると立派な口髭をたくわえた気難しそうな老人が小窓から顔を出し、
「何をしている。
教会へ参らねばならぬというのに、早く出さぬか」
苛々とした口調のこの老人がビートリー卿かと、グレイスは今にも噛みつかんばかりの長をサリヤに任せると、
「ビートリー卿でいらっしゃいますか?」
「……そなたたちは何者だ。
今、私は急いでおる」
そこをどけ、と手をひらひらと振り窓を閉めようとするのへ、グレイスは持っていた扇子を伸ばして小窓に挟んだ。
「無礼な!何をする!」
「無礼はどちらでございましょう。
私どもはそちらから招待を受けてこの土地に参った旅の楽団でございます。
そんな招待はしていないと言われましても、しっかりした理由も聞かぬままわかりましたと引き下がることは私どもにはできません」
この者たちが話に聞いていた旅の楽団たちかとビートリー卿は眉をひそめた。
自分に招待されたと言い押し寄せてきた旅の楽団など追い払うことなど雑作もないが、街中にやたらに変な噂を流されても困る。
しかし実際に招待などしていないのに、招待状を持っているという話もおかしなことだ。
ビートリー卿は息を洩らしながら、
「……今は本当に急いでいるのだ。
しかたない、グレイソン、この者たちを屋敷へ」
大柄な男が頷き馬車から降りると恭しく一礼し、その前を馬車は街の方へと走り去っていった。
グレイソンと呼ばれた男はどうやらビートリー家の執事らしい。
グレイスたちを振り返ると大きく息をつきながら、
「おまえたち、旦那様にいったい何を申しに参ったのだ?
こちらは本当におまえたちの楽団を招待などしていないのだ」
グレイソンの困りきった顔からは嘘をついているとは思えず、あれほど怒り狂っていた長も時間が経ち何かの手違いなのかと首を傾げている。
屋敷の中の大広間に通された三人はメイドたちが運んできた紅茶を飲みながらビートリー卿の帰りを待つことになった。
この辺りの有力者だけあって丘の上に建つこの洋館は抜きん出て素晴らしい造りであった。
グレイソンの他にも使用人は数多くいるようだが、不思議と人の気配を感じさせない静寂に満ちた屋敷に、長もサリヤもどことなく落ち着かない様子を見せている。
「なんだかいやに静かな屋敷だな」
長がきょろきょろと室内を見回しながら言った。
「この屋敷だけ街から離れて建っているし、周りにほとんど建物がないからね。
使用人の数はたくさんいそうだけれど、客人があるときは控えているのだろう。
それにしてもビートリー卿はどこへ行ったのだ?」
小さくため息をつきながらサリヤはティーカップの紅茶を飲み干した。
「教会へ行くと言っていなかった?」
グレイスが言い、ちょうど現れたグレイソンに視線を移して、
「ビートリー卿は教会に行っていらっしゃるんですか?」
グレイスの言葉にグレイソンの表情が曇り、しかしそれはほんの一瞬のことであったから長もサリヤも気がつかなかったが、グレイスはグレイソンのその微かな表情の翳りを見逃さなかった。
「ビートリー家は教会に多額の寄付をしておられるから、そのお話で参られたのだ。
そんなことより、おまえたちの楽団に届いたという招待状とやらを私に見せてくれないか」
ビートリー家からの正式な招待状はすべてグレイソンが管理し作成しているというから、招待状を見れば偽物か本物かすぐわかるというのだ。
長が差し出した封筒を受け取り中から一枚の紙を取り出したグレイソンの顔色が、今度こそ三人にわかるように青ざめていった。
「これは……まさか、そんなことが、まさか……!」
ぶるぶると震えるグレイソンを前に、グレイスたちは訳もわからずにただ顔を見合わせるしかなかった。
「これは、私が作成しビートリー家が出したものではない。
でも、これは……いや、そんなはずはない、そんなはずは……」
そう呟きながらグレイソンはフラフラと広間を出て行った。
「なんだ、いったいどうしたっていうんだ?」
訳がわからないまま招待状を再びポケットへしまい、長はメイドが運んできた焼き菓子に嬉々として飛びついた。
「グレイス、どこへゆく」
広間を出ようとするグレイスにサリヤが声を掛けた。
「黙って待ってるの、飽きちゃった。
少し周りを散歩でもしてくるわ」
遠くまで行くんじゃないよというサリヤの声を受けて、グレイスはいつまでも子どもじゃないんだからと苦笑いしながら外へ出た。
屋敷を出て裏へ回ると一面に草原が広がり、そこから街を一望することができる。
吹いてきた風が鮮やかな緑の草を揺らし、まるで波のようにうねるのをグレイスは神妙な面持ちで見つめていた。
ヨコハマの港を離れてゆく船上から見た波もちょうどこんな風だった。
次第に小さくなってゆく儚げな微笑みを浮かべた董哉の姿が、揺れる緑の中に浮かんで見えるようで、グレイスは懐から懐中時計を取り出した。
……カチコチ……カチコチ……カチコチ……
金色に光る懐中時計には董哉のぬくもりが消えることなく残っていて、頬にそっと当てるとまるで董哉の手に包まれているような、泣きたくなるほどの幸福感に満たされてゆく。
ーーどこにいても、こうして私はあなたを感じてしまうのね……。
二度と会うことのない、愛しい人……。
董哉を身近に感じるこのときはグレイスにとってこの上なく幸せなひと時であり、そしてこの上なく残酷なひと時でもあるのであった。
幸せのあとすぐに訪れる淋しさもいつものことだと自分に言い聞かせ、ほんの少し微笑みながら懐中時計を懐にしまったグレイスは視線の先に小さな塔があることに気がついた。
近づいてみると案外高い塔で今は使われていないのか、人が出入りした形跡がない。
塔の上には大きな鐘が吊るされているところをみると、街に時間を知らせるための鐘塔なのだろうか。
塔の上から見た街並みはどんなに美しいのだろうと、グレイスは好奇心から扉に手をかけたが鍵が掛かっていて中に入ることはできなかった。
グレイスはつまらなさそうに息を洩らし引き返そうと踵を返したとき、すぐ後ろにいた人影に思わず息をのんだ。
「誰!?」
強く吹く風がザァッと緑の波を揺らし、その中に静かに微笑みながら佇む女の姿があった。
足音もなく気配さえ感じなかったのにと、グレイスは早鐘のように高鳴る鼓動を抑えるように胸に手を当てた。
「ごめんなさい。
驚かせてしまったわね」
女は微笑みながらゆっくりとグレイスに近づいてきた。
少し時代遅れにも感じられる白いドレスを纏っているが、一つにまとめて結い上げられた栗色の髪が陽の光りに照らされてキラキラと眩しく見えた。
「ここに人が来るなんて珍しいこともあると思って」
女はふふふっと面白そうに笑い、グレイスの顔を覗き込む。
「塔に登ってみる?」
まるでグレイスの心の中をわかっているかのように女は言った。
「鍵が掛かっていて入れないわ」
女はポケットから鍵を取り出してグレイスの目の前に差し出すと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、
「行きましょう。案内するわ」
ギ、ギ、ギィィィィィ……。
重い扉が開き塔の中へ入ると少しかび臭いにおいがしたが、女はかまわずに細い石段を慣れた足取りで登ってゆく。
長い間使われていないような気がしたが、中は思いのほか綺麗だったことに驚きながらグレイスも細い石段をゆっくりと登っていった。
最上階には大きな鐘が設置されており、小さなバルコニーからは街並みを眼下に見下ろすことができた。
「綺麗……」
グレイスが想像したとおり、塔から眺める街並みは天から差し込む幾筋もの光りに照らされてさらに美しく幻想的であった。
街並みに見入っていたグレイスだったが、隣で静かな微笑みを浮かべながら眼下の街並みをみつめる女はいったい誰なのか気になっていた。
この鐘塔はビートリー家の敷地内に建っていることから、ビートリー卿の親族の誰かなのだろうか。
着ている服は多少古めかしくても、使用人が着る代物ではないことはグレイスにもわかった。
ーーそれにしても、このひと……。
扉の前で鐘塔を見上げていたとき、グレイスはこの女の気配を全く感じなかった。
旅から旅への暮らし、行き先がいつも安全な場所とは限らない。
自分の身は自分で守れとサリヤから口を酸っぱくして言われて育ってきたグレイスだ。
これが女ではなく男で、グレイスに万が一危害を及ぼすのだとしたら……。
わりと勘の鋭い方だと思っていたのにとグレイスは自分に怒りを覚えると同時に、あれほど言ってあるだろうと怒るサリヤの顔が浮かんできて憂鬱になった。
「私はグレイス。
旅の楽団の踊り子よ」
グレイスがよろしくと微笑むと女はほんの一瞬真顔になり、
「旅の楽団……?
よかった、来てくれたのね」
「えっ?」
「オリヴィアよ」
よろしくね、と再び笑みを浮かべながらオリヴィアはグレイスの手をとった。
「オリヴィア、あなたはビートリー卿のご親族なの?」
「まあ、そういうことになるかしら。
それよりもあなたはどうしてここに来たの?」
オリヴィアは不思議そうにグレイスをみつめた。
薄い茶色の瞳が涼やかなオリヴィアは歳下のようにも歳上のようにも見え、愛くるしい表情の中に時折り見せるどこか儚げな微笑みに惹きつけられてしまう。
グレイスがここに来た経緯を話し始めると、オリヴィアは表情一つ変えずにグレイスの話にじっと聞き入っていた。
「招待していないと言われても私たちは現に招待状を受け取ってここに来たわけだから、理由を聞かせてもらわなければ帰るわけにはいかないわ。
だからビートリー卿が教会から戻ってこられるまで待たせていただいているのだけれど、じっと座って待っているのもつまらないからお屋敷の周りを散策していたらこの塔をみつけたというわけ」
「不思議なこともあるものね」
オリヴィアは言い、肩をすくめた。
「でも、あなたたちはきっと呼ばれたんだと思うわ」
「呼ばれた?誰に?」
「神様に。
呼ばれなければ決して辿り着けない、そんな場所があるものよ。
そして辿り着いたのならそれはもう運命なの。
すべてのことに出会うべくして出会う運命」
ーー董哉。
グレイスの眼裏にはにかんだような董哉の笑顔が再び浮かび上がる。
決して行くこともないような遠い東の国に行ったからこそ出会った董哉は、今やグレイスにとって何よりも誰よりも大切な存在になった。
たとえもう二度と会えなくても、二度とそのぬくもりに触れることができなくても、グレイスは董哉と過ごしたあの数日間の想い出だけで生きてゆける。
旅から旅への人生でいつだって自分らしくいられるのは、心の中に董哉という絶対的な存在が在り続けているからなのだ。
いつも自分を支えてくれる董哉という稀有なる存在に出会うためにヨコハマの街に呼び寄せられたのならば、グレイスはその不思議な力を恐れるどころか、むしろ心から感謝を捧げたい気持ちでいっぱいになった。
「あなたは?
あなたはどうしてここにいたの?」
「私?」
「ビートリー卿のお屋敷にはいなかったでしょう?
ここで何をしていたの?
この鐘塔はもう長いこと使われてないように思ったのだけれど」
グレイスの思案顔にオリヴィアは微笑みながら、
「人を待っているの」
「待ち合わせをしているの?」
「そう。
もうずいぶん待っているわ」
そう呟いたオリヴィアの微笑みが淋しそうでグレイスは何も言えなかった。
待っている相手は恋人だろうか。
先ほどとは打って変わって切なげな光が瞳に揺れているのを見て、グレイスは胸が締め付けられるようであった。
もしかすると周りから反対されている道ならぬ恋仲であるのかもしれない。
オリヴィアの今にも泣き出しそうな表情から何か深い事情があるのだろうとグレイスは察した。
「陽も翳ってきたわ。
オリヴィア、もしよかったらあなたの待ち人のことを話してくれない?
私は旅の踊り子だけれど、何か力になれるかもしれないわ」
「あなたが?」
「何かに呼ばれてここに辿り着いたのならば、あなたとの出会いも運命なのでしょう?
運命には逆らえないわ」
グレイスの言葉にオリヴィアは面白そうに笑い、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「テオとは教会で出会ったわ。
彼は画家のたまごでね、とても素晴らしい絵を描くのだけれど、まだまだ彼の良さは認められなくて。
おまけに私より7つも歳下なのよ」
そう言って俯きながら寂しげな笑みを浮かべたオリヴィアは、一気に老け込んだように見えてグレイスは思わずギョッとした。
若く見えるけれど実際にはグレイスよりも歳上なのだろうかと思い、先ほどまでのオリヴィアのキラキラとした美しさが途端に色褪せたような気がしてグレイスは心の中の動揺を悟られないように頷いた。
「歳の差なんて関係ないわ。
二人が幸せなら問題ないことよ」
オリヴィアはグレイスをまじまじとみつめ、ホッとしたように息をついた。
「みんながあなたみたいな人ばかりならね」
オリヴィアの言葉からどうやら歳下の恋人であるテオとの仲を認めてもらえていないらしい。
数多の国を旅してきたグレイスは、歳の差がある恋人や夫婦など当たり前に目にしてきた。
中にはやっぱり家柄や歳の差といったことを気にする土地もあるが、グレイス自身そんなものはほんの些細なことでしかなかった。
恋人、ましてや結婚する二人の間に必要であるとするならば、家柄や歳の差などではなく、お互いを想い合う深い愛情と信頼に他ならない。
しがない画家のたまごであるテオは街の有力者であるビートリー家と繋がりあるオリヴィアの相手に相応しくないと、結婚相手として認めてもらえないのだろうと思った。
「テオとはいつもここで会っていたんだけれど、もうここの鐘は使われていなくてね。
この鐘の音は本当に美しくて私たちはそれを一緒に聴くのが好きなの。
ほんの少しの時間だけれど、私にとってはかけがえのない大切な時間なのよ。
テオの笑顔、テオの声、テオのぬくもり……。
私には彼がいればそれだけでいいの」
きっぱりと言いきったオリヴィアの横顔は見惚れるほど凛として美しかった。
「あなたにも見せてあげたいわ。
テオが描いた『トゥオネラのほとり』を。
そこにはテオと私が白鳥として描かれているのよ。
漆黒の世界に青く光る静かな川の水面に白鳥がふうわりと羽を広げている、あの静寂に満ちたトゥオネラの白鳥を……」
頬をバラ色に染めながらオリヴィアは言い、胸に手を当ててうっとりと目を閉じた。
黄泉の国を流れる川、トゥオネラ。
優雅で美しい曲であるが言いようのない儚さと寂しさを感じさせる曲で、そのメロディーは黄泉の国をただ静かに流れゆくトゥオネラ川にふさわしいとグレイスは思ったものだ。
グレイスは恋人との明るい未来を思い描くオリヴィアの口から飛び出したトゥオネラの名前に、思わず浮かべていた笑みが凍るようであった。
「トゥオネラの白鳥を描くなんて素晴らしいわね。
でも若いお二人をトゥオネラの白鳥として描くなんて、少し寂しいような気がするわ。
そんなに素晴らしい絵を描ける画家なのだから、二人の未来にふさわしいもっと明るい絵も描けたでしょうにね」
オリヴィアはぞっとするような美しい笑みをグレイスに寄こしながら、
「テオはこの世界こそ私たちにふさわしいのだと言ったわ。
ただ静かに流れるこのトゥオネラの世界でも二人でいようと」
そう言って笑うオリヴィアはほんの少し前のオリヴィアとはまるで別人のような、テオを求めてやまないその瞳には狂気さえ感じさせる強い光が宿っていた。
もしかしたらテオとオリヴィアはこのトゥオネラの世界に行こうとしているのかもしれないとグレイスは思った。
流れる川の音以外ほんの微かな音さえも存在しない、静寂に満ちた黄泉の国へ。
グレイスはバルコニーから身を乗り出して下を見たが、テオらしき人物の影はまだ見当たらない。
強く吹き始めた風に緑の波が次第に激しくうねり始め、それはテオを待ち焦がれてやまないオリヴィアの心の中に吹き荒れる嵐のようにも感じられた。
「あのひとはどうして来ないのかしら……。
ずっと、私はこうして待っているのに」
オリヴィアはつと顔を上げて、一目で年代物とわかるその大きな鐘に駆け寄った。
「あぁ、そうだわ。
鐘の音……!
鐘の音が七つ鳴るまでにここにくるとあのひとは約束してくれた。
だから鐘を、鐘を鳴らさないと……」
「鐘?」
グレイスが見上げると、そこにはどうやっても鳴るはずもないほど錆び付いた鐘の姿があった。
「オリヴィア、この塔はもう長いこと使われていなかったんでしょう?
鐘だってこんなに錆び付いて音なんか出るわけがないわ!」
グレイスの声にゆっくりと振り返ったオリヴィアはもう笑ってはいなかった。
悲しみをはるか超えて感情のすべてが無に帰するような絶望に満ちた表情は、背筋が凍るほど恐ろしいのになぜかこの上なく美しいとグレイスは思った。
「鐘が鳴ればあのひとは、テオはここにやってくるわ。
だから鐘を、鐘を……」
鐘に縋りつこうとするオリヴィアをグレイスは後ろから抱きしめた。
「待って!
鳴らしてはだめ!
トゥオネラに行ってはだめ……!」
振り返ったオリヴィアはほんの少し笑みを浮かべたかと思うと、鐘の向こうへと身を翻した。
「待って、オリヴィア!
待って……!待っ……て……」
「グレイス!グレイス!」
目を開けるとそこには汗にまみれた長とサリヤの顔があり、それは汗だけではなく涙に濡れているのだとどこかぼんやりした中でグレイスは思っていた。
「良かった……!いったいここで何をしていたんだ!散々探し回ったんだぞ!」
烈火の如く怒るサリヤの横では長がホッとしてヘナヘナと座り込んでいる。
ビートリー卿が戻ってきたので外へ出て行ったグレイスを呼ぼうとしたがどこを探しても見つからず、もしやグレイスの身に何かあったのではと必死に探し回っていたという。
「こんなところに鐘塔があったなんて……。
鍵が掛かっていて中にも入れないし、おまえはいったいここで何をしていたんだ?」
鍵の掛かってある扉に手をかけて長が言うのを、グレイスは狐につままれたような面持ちで聞いていた。
「オリヴィアは?」
「オリヴィア?誰のことだ?」
「白いドレスを着ていて、ビートリー家の親族だと言って……。
オリヴィアは鍵を持っていて、私たちさっきまで塔の上にいたのよ?」
長とサリヤは顔を見合わせため息をついた。
「扉の前で倒れているおまえをみつけたとき心臓が止まるかと思ったぞ。
夢でも見ていたのか?
とりあえずおまえが無事で良かった」
サリヤはグレイスの背中をさすりながら優しく抱きしめた。
サリヤの身体から伝わってくる温かさが、グレイスのぼんやりとしていた意識を次第にはっきりとさせていった。
鍵が掛かってある扉、錆び付いて鳴らない鐘。
でもあの扉の向こう側にたゆたう少しかび臭いにおいも、細く続く石段の勾配も、バルコニーから眺めた美しい街並みも夢ではなかったとグレイスは確信していた。
歩きながら自分に纏わりつく甘やかな匂い。
この匂いはオリヴィアを抱きしめたときに移った残り香だと思った。
そうでなければ香水の類を嫌う自分の身体から、百合の匂いが立ち昇ることなど決してないのだから。
大広間に入ると心なしか青ざめた表情のビートリー卿が、グレイスたちを今か今かと待ち構えていた。
先ほど馬車の中から見せた横柄な態度はすっかり消え失せて、ひどく落ち着かない様子を見せている。
「この招待状なのだが、やはりこれは私たちが出したものではない」
ビートリー卿が言う横で執事のグレイソンが何やらビクビクした様子でグレイスたちを伺っていた。
「しかし我々はたしかにこちらからの招待状をこうして受け取っております」
長が白い封筒をビートリー卿へ渡すと、しばらくじっと封筒をみつめたあと意を決したように中の封筒を取り出した。
ゆっくりと蒼白になってゆくビートリー卿はそれでも威厳ある口調で、
「差し出し人のオリヴィアはもういない」
「オリヴィア?」
グレイスは目を見開いてビートリー卿を凝視した。
「オリヴィアはここにはいないんですか?
今どこにいらっしゃるのでしょう」
「オリヴィアは死んだ。
もう40年も前になる」
「……まさか」
一瞬の間のあとでグレイスは呟いた。
「そんなはずはありませんわ。
だって私、先ほどお目にかかったんですもの。
あの鐘塔の前で」
グレイスの言葉にグレイソンがヒイッと声を上げ、ビートリー卿はじろりと一瞥した。
「グレイスといったか、オリヴィアはもう生きてはいないのに、おまえは鐘塔で会ったというのか?」
ビートリー卿の声が微かに震えている。
「ええ。
ビートリー家の親族でオリヴィアと仰っておられました。
白いドレスを着た美しい方でした。
画家のたまごでテオという男性とここで待ち合わせをしているのだと、ずっと待っているのに来ないから鐘を鳴らさないとと仰って……」
そこまで話すとグレイソンがぶるぶる震えながら慌てて広間から出て行った。
見るとビートリー卿は蒼白な顔をいっそう強ばらせてグレイスを食い入るようにみつめていた。
「テオという男を待っていると言ったのか?
あの鐘塔でずっと待っていると?」
「ええ。
オリヴィアはずいぶん長いこと待っていると言っていましたわ。
画家の恋人が描いたトゥオネラの白鳥をそれは絶賛していました。
でも恋人の話をしているときのオリヴィアはどこかとても悲しそうに見えて……。
トゥオネラの世界こそ私たちにふさわしいと口にするので、テオがやってきたら二人はトゥオネラの世界へ旅立ってしまうのではないかと案じているのです。
オリヴィアをご存知でしたらすぐに探さなければ……!」
ビートリー卿は蒼白な顔をそのままに、
「オリヴィアは私の妻の姉、私の……恋人だ」
長とサリヤが小さく叫び、ビートリー卿とグレイスを交互にみつめている。
「オリヴィアがビートリー卿の恋人……?奥様のお姉様、ですって?」
グレイスはオリヴィアが恋人が自分より七つも歳下だということを気に病んでいたことを思い出した。
自分ではどうにもできない、寂しげな笑顔が眼裏に浮かんでは消えてゆく。
「そう、私はセオドア・ビートリー。
テオと呼ばれていたしがない画家だった私がなぜビートリー家の当主になっているのか、さぞかし不思議に思っているだろうな」
ビートリー卿は視線を遠くに泳がせながら言葉を続けてゆく。
「私は描いた絵を売りながら旅から旅の暮らしをしている画家だった。
気ままな旅をする暮らしは悪くなかったが、次第にその日暮らしの生活への不安が募ってきた。
私はこのまま旅から旅への生活で一生を終えるのか、自分は安住の場所を手に入れることはできないのかと」
ビートリー卿の言葉にグレイスはまるで自分のようではないかと心がしくりと痛んだ。
「この土地に流れついてしばらくこのまま逗留しようと教会へ行き、少しの間置いてもらえることになった。
教会の手伝いをしながら絵を描いては売る、そんな生活をしているときにオリヴィアと出会ったのだ。
神の御前に膝まづき祈るオリヴィアの横顔は、それは凛として美しかった。
私はそのときにはすでにオリヴィアに心を奪われていたよ」
本当に美しかったと呟くビートリー卿は若き日の恋心を思い出しているのか、痩せこけた頬に力が漲っているように見えた。
「それからオリヴィアと私は密かに愛を育んだ。
オリヴィアがどこに住んでいてどんな家柄なのか私は知らなかったし、知ろうともしなかった。
私たちにはそんなもの、どうだっていいことだったから。
オリヴィアとの結婚を本気で考え始めたときだった、突然ビートリー家から呼ばれたのは」
ビートリー家はこの一帯では知らぬ者のいない代々続く由緒ある家であり、なぜ自分が呼ばれたのかさっぱりわからなかった。
しかし訪れた先にオリヴィアの姿をみつけたテオの鼓動は大きく波打った。
それはオリヴィアも同じように衝撃を受けたようで、目を見開き雷に打たれたかのように微動だにしない。
「オリヴィアはビートリー卿の前妻の娘だった。
オリヴィアにはクロエという異母妹がいて、教会の前で絵を描いている私を見染めたというのだ。
クロエの父、先代のビートリー卿は旅の画家である私を後継者に認めるわけがなかったが、溺愛していた娘の願いを退けることもまたできなかった。
そこでオリヴィアがクロエの異母姉であること、私より七つ歳上であり、嫁き遅れの令嬢として家族を始め周りから冷たい仕打ちを受けていることがわかったのだよ」
「オリヴィアはあなたの恋人だったのですよね。
あなたはなぜ、クロエではなくオリヴィアとの結婚を申し出なかったのですか?」
グレイスの強い口調には静かな怒りが込められて、それは恋人がありながらその妹と結婚したビートリー卿の不実さに向けられていた。
「欲に目が眩んだのだよ。
クロエと結婚すれば旅から旅への貧乏生活から抜け出すことができる、安住の地を得ることができると思った。
父であるビートリー卿がオリヴィアよりもクロエを溺愛していることは明らかであったし、私にはビートリー卿直々の願いを断わることなどできなかった。
そして私はクロエとの結婚を受けてしまった」
クロエとの結婚を承諾したテオをみつめるオリヴィア瞳は悲しみに満ち溢れ、きっと絶望の色に染まっていたことだろう。
グレイスは鐘塔で見たオリヴィアのあの絶望に満ちた表情を思い出した。
悲しみを遥かに超えた先にある「無」という感情が生み出すその表情を、思い出すだけで胸が締め付けられてゆくようだった。
「それ以来オリヴィアは私に近寄ることも話すこともしなかったし、私もまた何事もなかったかのように振る舞った。
……私は酷い人間だ。
未来を誓い合った恋人よりも富と名誉を選んだのだから、何を言われても弁解の余地はないよ」
ビートリー卿は弱々しく笑い、そして机の引き出しから小さな包みを取り出した。
「トゥオネラの白鳥……」
グレイスの目の前にはオリヴィアが絶賛していた『トゥオネラの白鳥』が描かれたキャンパスが置かれた。
漆黒の世界に浮かぶ青白い光に溢れた、静かで悲しみに満ちたトゥオネラの川。
「テオは私たちにはこのトゥオネラの世界がふさわしいと言ったとオリヴィアは言っていましたわ。
それはどうして?」
「ふさわしい、というよりも私の願望だったのかもしれない。
オリヴィアを捨てておきながら、心はいつもオリヴィアを求めていたんだ。
笑いさざめきながら過ごしたあの時のまま、誰もいない静寂のトゥオネラで、ただオリヴィアと二人でいたいと……。
勝手なことをいう男だと思うだろうがね」
ビートリー卿は自嘲気味に笑いキャンパスを愛おしそうに撫でた。
「人はいったん手にしたものを失うことに恐れを抱くものだ。
クロエと結婚したことで得た富と地位を守ることに私は必死になり、いつしかオリヴィアの存在が心から消えていった。
オリヴィアが永遠に眠りにつくあの日まで」
数日間降り続いた雨が止み、空に大きな虹がかかるのをビートリー卿はバルコニーから見上げた。
そのときなぜかオリヴィアと並んで虹を見上げた日のことを思い出して、奇妙な胸騒ぎを覚えた。
心の底に追いやっていたオリヴィアへの想いが湧き上がり、今どうしているだろうと思った矢先にオリヴィアの訃報が届いた。
鐘塔からの転落死だった。
結婚もせず人目を避けるような静かな暮らしをしていたオリヴィアだったが、慎ましやかな人柄は多く慕われており、街の人々はオリヴィアの死を心から悲しんだ。
もう使われていない鐘塔になぜオリヴィアが登っていたのか人々は口々に噂しあったが、今となっては真相を明らかにすることはできない。
日陰の存在ではあったがビートリー家の娘であることには変わりなく、街をあげての葬儀となり、当主となっていたセオドア・ビートリーが葬儀の一切を取り仕切った。
教会に安置されたオリヴィアは白いドレスを身に纏い、まるで眠ってでもいるかのように穏やかで、愛を語り合った若き日と変わらない美しさであった。
ーーオリヴィア、私は……。
冷たくなったオリヴィアの頬に触れたとき、ビートリー卿は心からの懺悔の想いが溢れ出した。
ーーきみは待っていたのだろう、あの日あの場所で私が来るのをずっと……。
ビートリー家に呼び出されたあの日、いつもの鐘塔でオリヴィアと会う約束をしていた。
なけなしの金をはたいて買った小さな指輪をポケットにしまって、オリヴィアに結婚の申し込みをしようと心に決めていたあの日。
『鐘が七つ鳴るまでに』
いつもの約束を果たすはずだった。
それなのに。
二人の運命の輪を狂わしたのは自分なのだ。
オリヴィアの頬にぽたりぽたりと涙が落ち、まるでオリヴィアが泣いてでもいるかのように見えて、ビートリー卿は込み上げる嗚咽を止めることができなかった。
オリヴィアを喪ってからのビートリー卿は足繁く教会へ通うようになった。
オリヴィアへの懺悔と若き日の想い出を感じるために。
病床に臥していたクロエを見送ると教会へ通う頻度はさらに高まった。
「私は神に祈り赦しを乞うことしかできない。
私の勝手な思惑でオリヴィアとクロエ、どちらも不幸にしてしまった償いを生涯し続けなければならない。
それが今の私にできるせめてもの……」
どんなに悔いても人生をやり直したいと切望しても、流れた月日は二度とは戻らない。
ビートリー卿の痩せこけた頬に涙が伝い、それは心底からの悔恨の光に見えた。
「おまえたちがここに来たのはオリヴィアに呼ばれたからなのだな」
「すでに亡くなられた方が招待状を!?」
まさかそんな、と長は薄気味悪そうに小声で言った。
「招待状の最後にビートリー家の者のサインが必要なのだが、そこの部分をよく見るがいい」
長は恐る恐る招待状を開いてみた。
「あっ……!まさか、そんな……」
サインのところにはまさに最近書かれたとでもいうようにペンの色も鮮やかに、オリヴィア・ビートリーの名前があった。
「招待状の用紙はまとめて保管してあるから、昔の物が時折り混ざることがあるらしい。
そうだな?グレイソン」
「さようでございます」
非業の死の真相も明らかにならぬまま永遠の眠りについたオリヴィアの名前に驚きを隠せず、思いのほか取り乱してしまったのは執事にあるまじきことと恥ながらグレイソンは頭を垂れた。
「偶然とはいえ、これも運命なのだろう。
楽団がここへ来たことで私がオリヴィアのもとへゆく日が近いことを知らせてくれたに違いない」
ビートリー卿はふっと笑みをこぼしグレイソンに目配せをすると小切手を長の前に差し出した。
「オリヴィアが招待した客人を無下に扱うことはできぬ。
必要な金額を書くがいい」
長は嬉々として小切手を受け取ろうとしたが、その手をグレイスが差し止めた。
「ステージに上がってもいないのに報酬をいただくわけにはまいりませんわ」
「グレイス!?」
何を言うんだとばかり長の目が身開いたが、グレイスは冷ややかな視線を長に投げかけてビートリー卿の前に小切手を置いた。
「ステージをこなしてこそ報酬はいただくもの。
私たちは乞食じゃない。
私は自分の歌に、踊りに誇りを持っているわ」
力強く言い放つグレイスの姿に、ビートリー卿は神に祈るオリヴィアの凛とした美しさを垣間見た気がした。
「そうだな、無礼を許してくれ。
ならば今、歌を歌ってくれないか」
「歌を?」
「私はオリヴィアへの愛を今度こそ誓いたい。
だからオリヴィアへ届くように、もう二度と離れないと伝えるために」
ビートリー卿はそう言うと椅子に深く身を沈め目を閉じた。
オリヴィアと出会ったのは決して夢ではない。
オリヴィアの身体のぬくもり、グレイスを包んだ百合の匂いはたしかに現実のものだった。
『呼ばれないと辿り着けない場所があるものよ。
出会うべきことに出会う、それはもう運命なの』
静かな微笑みとともにオリヴィアの言葉が蘇り、グレイスは息をつく。
ーーそうね、私がここに来たのは運命。
恋人たちの約束が果たされるために、私は呼ばれてここにいる。
グレイスはオリヴィアの魂に呼びかけるように歌い始めた。
『気高き愛の魂は色褪せることなく
今も風に乗って駆け巡る
時を刻む音さえも二人の間にはなきに等しく
静かに横たわる川の流れにただ身を委ねよう
手の中にあるは 遥かな約束の言葉
愛の言葉を今こそ あなたに捧げよう』
グレイスの美しい歌声にビートリー卿は耐えきれず嗚咽を洩らし、それはしだいに慟哭へと変わっていった。
魂を揺さぶるような歌声はオリヴィアとビートリー卿の若き日の恋を浄化しながら響いてゆく。
「全く、とんだ目にあったもんだ」
ぶつぶつこぼしながら長が荷造りをしているのをグレイスは横目で見やり、
「歌一曲にしてはずいぶん法外な金額を請求したものね」
「うっ……。
それはだな、精神的、そう、精神的苦痛を味わった分も込みなんだ!
楽団員みんなを養わなくてはならないわしの身にもなってみろ!
今回でずいぶん痩せたぞ、全く……」
でっぷりした腹をさすりながらそそくさと出てゆく長にため息をつきながら、グレイスはバルコニーに出て丘の上のビートリー家を見上げた。
グレイスが歌を歌った夜から抱えていた持病が悪化しビートリー卿が床に伏してしまったと、楽団が移動する船の切符を届けに来たグレイソンは言った。
年齢も年齢だけに心配だとグレイソンは言い、道中気をつけてと言い置いて早々にビートリー家へと戻って行った。
空は今にも雨が降り出しそうな曇天が広がりぬるい風が吹き始めた。
明朝にはこの国を出てまた旅が始まる。
旅から旅の人生に区切りを打ったビートリー卿の姿が一瞬でも自分に重なって見えて、グレイスは愛よりも願望を取ってしまったビートリー卿をしかし非道すぎると詰れないでもいた。
安住の地、終の住処があるということがどんなに幸せなことか。
当たり前のことが当たり前として過ごせることがどんなに幸せなことか。
ーービートリー卿はおそらくきっと……。
痩せこけた土気色の頬を涙に濡らすビートリー卿の角ばった顔を思い出していたとき、
カァーーーーーン カァーーーーーン……。
突然鳴り始めた鐘の音にビクッと身体を強張らせたグレイスは耳を澄ませた。
これは教会の鐘ではない。
だとするとこの鐘の音はいったいどこから……。
カァーーーーーン カァーーーーーン……
グレイスはビートリー卿の屋敷の少し後ろに見える鐘塔を見上げた。
バルコニーからは屋根だけがほんの少し見えるだけだ。
グレイスは慌てて外に出ると鐘塔が見える場所まで全力で走った。
錆び付いた鐘はそのままに、ただ鐘の音だけが物悲しく鳴り響いていた。
「長!サリヤ!」
「ワッ!なんだってんだ、グレイス!」
「何を騒いでるんだ?明日の準備は終わったのか?」
「鐘が……!」
「鐘?」
「ビートリー家の鐘が鳴ってる……!」
長とサリヤは顔を見合わせてバルコニーへ出たが、耳を澄ませても鐘の音はおろか鳥の囀りさえ聞こえない。
「何を言ってるんだ、何も聴こえないじゃないか」
「あの鐘の音が聴こえないの!?ほら、よく耳を澄ませて……」
「グレイス、よしてくれ。
幽霊騒ぎはもうたくさんだ。
おれは一刻も早くここを出たい」
長はため息をつきながら部屋へ入ってゆき、サリヤも肩をすくめながら長のあとについて行った。
耳の奥に響くあの鐘の音が自分以外には聴こえていないとは信じ難いグレイスであったが、あの鐘塔で微笑みを浮かべながら鐘を鳴らしているオリヴィアが見えるようであった。
ーーあぁ、そうだ、この鐘の音は……。
七つ鳴り終えるまでに会いに行く。
ビートリー卿は今まさに約束を果たしにゆこうとしているのだとグレイスは思った。
カァーーーーーン……
カァーーーーーン……
あと一つ……。
カァーーーーーン………
七回目の鐘の音が鳴り止むと同時に、曇天の隙間から光の筋がビートリー家を包み込むように振り降りてきた。
ーーオリヴィアはビートリー卿に会えたのかしら……。
鐘塔の石段を駆け上がり抱きしめ合うテオとオリヴィアの姿が目の前に浮かび、グレイスはいつの間にか涙を流していた。
若き日のビートリー卿が描いたトゥオネラの白鳥のように、もう二度と離れないと身体を寄せ合って二人はあの静寂の世界へと旅立って行ったのだ。
誰も何も邪魔するもののない、二人だけの世界。
トゥオネラの川のほとりで抱き合い、鳴り響く鐘の音を聴きながら、テオとオリヴィアは永遠の時をこれから二人だけで生き続けるのだ。
愛する人のそばにいられるのなら、静寂だけがたゆたう黄泉の国であったとしても羨ましいとグレイスは思った。
董哉ともう一度抱きしめ合えたなら、今度こそ心からの愛の言葉を伝えるのに……!
グレイスは懐中時計を取り出して両手で握りしめた。
カチコチという秒針の音がグレイスを現実に引き留めてくれる。
楽団の歌姫として旅を続けゆく人生。
董哉のいない現実。
そうだ、これが現実なんだ……。
後悔しないように自分に正直に生きてゆこうとグレイスは思った。
どんなときも後悔だけはしたくない。
懐中時計の心地良い音を聴きながら、董哉の魂はいつもここにあると確信する。
『グレイス、君のゆくところに僕はいつもいるよ』
董哉の清やかな声が耳に届き、グレイスはふっと笑みをこぼした。
「そうね、董哉。
あなたは私と一緒に旅をしているんだものね。
トゥオネラにずっと留まるような私たちじゃないわよね」
耳の奥に残る鐘の音の余韻を感じながら、グレイスは大きく深呼吸した。
空はいつの間にか雲が晴れ、穏やかな夕陽が街並みを照らしているのだった。
完
最後まで読んでくださりありがとうございます
(*´꒳`*)