まーたる、ショートストーリーを書いてみた第18弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´∇`*)
「シャングリラ」
南向きの大きな窓から差し込む春の光は限りなく優しく、奥沢の目に映る自分はきっと愛の女神ヴィーナスのように見えているかもしれないと舞衣は思った。
そしてその瞬間にはもう、身体の奥の誰にも触れることのできない深い泉が熱く燃え上がり、舞衣はそのやわらかな表情の下で人知れず悶えていた。
身悶えるほどのその甘美な痛みを舞衣自身どうすることもできないもどかしさに喘いでいるのを、奥沢は射抜くようなその鋭い視線で弄びながら白いキャンバスに一心不乱に筆を走らせている。
少しだけ開いている窓から入り込む風が、舞衣の裸体を纏う薄いヴェールをふわりと空に遊ばせた。
美大を卒業後、二年間の海外留学を終えて帰国した舞衣は大学時代の恩師の頼みで、ある芸術家の絵画モデルをすることになった。
「私の古い友人でね、昨年までイタリアで芸術活動をしていたんだが拠点を日本に移すと言って、今度の個展に出品する作品のモデルを探してるらしいんだ。
やつの注文はすごく細かくてね、なかなかお眼鏡に叶う人が見つからなかったんだが、君の写真を見せたらぜひお願いしたいと」
帰国したばかりで就職先も決まっていなかった舞衣は、モデル料は毎回弾むらしいという恩師の一言に、まだ仕事が決まっていないこともあり思わず承諾してしまった。
舞衣の両親はすでになく兄弟もいない孤独な環境の中、幼い頃からさまざまなコンクールに入賞していた絵画の実力をめきめきと発揮させて、念願だった美大への入学を果たした。
美大での刺激的な生活は内向的だった舞衣の心を前向きにしてくれるに余りあり、さらに実力をつけたいと語学を学び海外の美大への留学を実現させた。
絵画で食べていくことの難しさは、海外の芸術に触れることで嫌でも身に染みた。
それでもやっぱり絵画から離れることはできないと、絵を描き続けながら絵画に携わる仕事を探すつもりの舞衣であった。
「奥沢徹平。
君もよく知っているだろう?」
その名前を聞いたとき、舞衣は思わず身を乗り出した。
「あの奥沢徹平さん、ですか……?」
肩をすくめて笑う恩師をみつめながら、舞衣は目を瞬かせた。
奥沢徹平。
彼の描く女性画は聖母マリアのように純真無垢のように見えもするし、愛の女神ヴィーナスのような甘美な美しさを湛えているようにも見える、唯一無二の女性を描く奇才とも呼ばれている一流芸術家である。
「あいつの注文はかなり厳しいが、やつが自分から求めてきたのは君が初めてだ。
やつにとってのヴィーナスをようやく見つけたというところだろうな」
恩師の言う通り、奥沢の注文は細かく厳しいものだった。
才気が溢れ出しているせいか五十代にしてはかなり若々しく見えた。
切れ長の瞳にはギラリとした光がたゆたい、無造作に流された黒髪に混じる白い筋さえも、まるで彼の芸術作品のように洗練されたものにみえた。
全神経を研ぎ澄まし一心不乱にキャンバスに筆を走らせる徹平の鬼気迫る姿は、これが世界で活躍する一流の芸術家なのかと舞衣は息を飲まずにはいられない。
生活費を稼ぐために引き受けた仕事ではあったが、自らも絵を描く者として才能溢れる芸術家のそばで過ごすことができるひと時はかけがえのない貴重な時間でもあった。
現に徹平のアトリエから帰宅すると舞衣の創作意欲に火がついて、夜通しキャンバスに向かうのがほぼ定番になっているのである。
「疲れたろう。
今日はここまでにしておこうか」
低くそれでいて静かな徹平の声にハッとして、舞衣はそばに置いたガウンを羽織る。
徹平の目に映る自分の姿が描かれているキャンバスの中が気になりながら、目の前に置かれたコーヒーカップを持ち上げた。
コロンビアに住む友人から取り寄せているというコーヒー豆を挽いたコーヒーは、こっくりとした深みがおいしくて舞衣の喉をするりと滑り降りてゆく。
「君のおかげでいい作品ができそうだ」
カウンターにモデル料の入った封筒を置き、徹平は静かに微笑んだ。
恩師が言った通り、絵のモデルにしてはおそらく破格の金額が毎回入ってある封筒を舞衣はお礼を述べてバッグへしまった。
「君の絵はどう?
進んでいるの?」
絵の具が染み込んだ白いシャツの袖を軽く折り曲げて、徹平は徐に煙草に火をつけた。
ふうっと吐き出した煙が春の光に遊ぶようにゆっくりと踊るのを舞衣は眺めながら、
「はい。とても順調です」
にっこりと微笑んだ舞衣に徹平はどこか面白そうな表情で、
「それはけっこうなことだ。
俺の作品とどちらが先に完成するかな。
楽しみだ」
コーヒーを飲み終わると舞衣はそそくさと帰り支度をし、アトリエをあとにする。
たくさんの絵の具や作品、徹平が気に入っている美しいサバンナの写真集、油絵の匂いに包まれた徹平のアトリエは舞衣にとってまさに楽園だった。
自分の好きな物に囲まれ好きなことで生きていける、楽園のような場所。
強烈な憧れであると同時に強烈な嫉妬も感じてしまうほど、この場所は舞衣にとって特別な場所になっていた。
そして舞衣の目に映る『芸術家奥沢徹平』は、いつの間にかただ一人の『奥沢徹平』になっており、会うたびに募るその想いに舞衣は自分の気持ちを持て余すようになっていたのである。
アトリエを出てゆるりと長い坂道をゆっくりと降りて行きながら、舞衣はようやく息ができるような気がして思い切り深呼吸をした。
モデルとして裸体を晒しているけれど、徹平に何の感情も持っていない舞衣には羞恥心はなかった。
それが回を重ねるごとに未だ感じたことのない想いに苛まれるようになったのは、いったいいつからなのだろう。
挑むように注がれるキャンバス越しの徹平の視線。
裸体ではない、誰にも見せたことのない心の奥の奥まで見透かされているような気がして、その時にはすでに心を鷲掴みにされていたのかもしれない。
モデルになって半年、徹平の作品はおそらく完成も間近だろう。
作品が完成したらもう会うこともない。
住む世界の違う男に恋するほど愚かな自分ではなかったはずだ。
幼い頃から苦労の連続だった。
大人になったら穏やかな環境の中で愛する人と幸せに生きていきたいと願ってきた。
それなのにーー。
舞衣は振り返り小さくなった徹平のアトリエをみつめた。
そして小さく息をつくと、バッグの中でブルブルと震え始めた携帯電話を取り出した。
表参道のカフェに来るのはこれで何度目だろう。
大きな窓から差し込む光の中をカフェ・オ・レの甘い湯気が立ちのぼる。
晴人の職場が近いこともあり、このカフェで待ち合わせることが多かった。
待ち合わせ時間にはまだ早かったが、気持ちを切り替えるのにはちょうどいい。
適度に騒めく店内にホッとしながら、舞衣はゆっくりとカフェ・オ・レを啜った。
美大時代の友人のサッカー仲間だった晴人と出会い、付き合うようになって半年、晴人からのプロポーズを受けたのは先週のことだった。
穏やかな性格の晴人は限りなく優しくて、そばにいると心から安心していられた。
ふんわりとしたやわらかな綿でくるまれたような安心感は舞衣が切望していたものであり、ようやく掴んだ安息の場所でもあった。
しかしその安息の場所で誰憚ることなく安堵の息をつく自分の中に、自分でも説明できない想いが小さな棘となっていることを、舞衣は気づかないふりをしようと思っていた。
「舞衣、ごめん。遅くなって」
店内に入ってきた晴人は息を切らしながらテーブルに着いた。
「走ってきたの?急がなくても良かったのに」
風に遊んでいただろう前髪をそっと直しながら舞衣は微笑んだ。
「舞衣が待ってると思ったら足が勝手に走り出してた」
そう言って笑う晴人の笑顔が眩しくて、舞衣は重なる晴人の手の温かさをこそばゆい気持ちで感じた。
「結婚のこと、両親に言ったらすごく喜んでた。
舞衣の都合のいい日でいいから、うちに連れてこいって」
晴人は照れたように言い、グラスの中のレモン水を飲み干した。
「……私なんかでいいのかしら」
晴人も両親も、舞衣が芸術家とはいえ男の前で裸体を晒しているなどとは露にも思っていないだろう。
しかもあろうことか、今までにはなかった恋愛感情を抱き始めているのだ。
徹平にとって自分は作品なのであり、一人の女として見られていないことなど百も承知の恋心を舞衣は必死に隠していた。
他の男への恋心を抱いたまま結婚しようとする女に、晴人のような善良な男は勿体ない。
晴人にはもっと晴人だけを想う女こそがふさわしいのだと、舞衣は唇をきゅっと噛み締めた。
「舞衣は僕にとって誰よりも大切な人だ。
舞衣がいない毎日なんて考えられないよ」
俯きがちな舞衣の手を握りしめる晴人の手はどこまでも温かく、みつめる視線は限りなく優しい。
そう思った刹那、晴人の温かな視線を掻き消すように徹平の鋭い視線が舞衣の眼裏に浮かび上がり、舞衣の身体がビクッと震えた。
サバンナに潜むしなやかな黒豹のような、人を射抜く鋭い視線。
「どうしたの?」
晴人の声に舞衣は何でもないとぎこちなく微笑み、微かな動揺を隠すようにカフェ・オ・レを飲む。
ぬるくなったカフェ・オ・レは甘ったるく、舞衣は晴人との世界にさえ忍び寄る徹平の存在の大きさを、今さらながら強く感じずにはいられなかった。
カフェでのひと時を過ごし空が鮮やかな夕暮れに染まり始める頃、徹平のアトリエで過ごした夜はキャンバスに向かうことに決めている舞衣は、これから一緒に食事をという晴人の誘いをやんわりと断った。
わりと久しぶりに会ったというのにどこか心あらずといった舞衣に、疲れているんだねと労りの言葉をかけてくれた晴人に申し訳なく思いながら改札で別れた。
自宅のマンションに戻る頃には紺碧の空に星が輝き始めていた。
一人で住むには広すぎるこのマンションは両親から受け継いだ舞衣のたった一つの財産でもあり、孤独を癒やしてくれるオアシスでもあった。
アトリエとして使っている一室に入ると油絵の匂いがふわっと鼻先をくすぐり、舞衣はこの上ない幸福感に包まれる。
部屋の真ん中に置かれたキャンバス。
カーテンを開けて見上げた紺碧の空のように、吸い込まれそうに深い藍色の抽象画は、徹平のアトリエから戻った夜でないと描くことができないものだった。
ーー今夜で、完成してしまう……。
キャンバスをなぞりながら舞衣は椅子に座り、息を整えて筆を走らせ始めた。
しなやかに美しい、黒豹の視線を感じながら。
次の約束の日に君の絵を見せてほしい。
徹平から連絡を受けた舞衣は、徹平の作品はほぼ完成しておそらく次が最後のモデルになるのだろうと思った。
始まりがあれば終わりがある。
わかっていたことだったが、いざその時がくると自分でも可笑しいほど動揺してしまう。
徹平への恋心をこれまで隠し通してきたのだ。
二人で過ごす最後の日であっても、変わらず上手く隠し通してみせればいいことだ。
平静を装いながらキャンバスを大切に抱え、舞衣は徹平のアトリエを訪れた。
「俺の作品はもう完成した。
君のおかげで最高に素晴らしい作品になったよ。
ありがとう、感謝するよ」
徹平はいつものように低く静かな声で礼を述べた。
「こっちへ来てごらん」
徹平に呼ばれてキャンバスの前に行くと、
「君が一番最初の観客だ」
覆われていた布が取られると、そこには自分だけど自分ではない、徹平の目に映るまさにヴィーナスの姿があった。
穏やかなのにどこか挑発的な微笑みを浮かべる女の、生々しい艶やかさに舞衣は息を飲む。
「まさに俺が描きたかったヴィーナスそのものなんだ」
熱を帯びた視線で食い入るようにキャンバスをみつめる徹平の口調は少し震えているようだった。
徹平の視線に映る自分はこんなに艶やかだったのかと、抑えていた舞衣の恋心が急激に膨らんでゆく。
「作品を完成させたら君の絵を見たくなって。
無理を言って悪かったね」
キャンバスを置いた舞衣にコーヒーをすすめながら徹平は微笑んだ。
「奥沢さんに見ていただくのはとても緊張します」
「緊張なんてしなくていいよ」
徹平は笑いながら言い、
「絵には作者の心が宿るんだ。
技術の上手い下手じゃない、絵に込められた作者の想いが観る者の心に響くものだ。
だから君の絵に込められた想いを感じたいと思った」
キャンバス越しでない徹平の視線はいつもにない静かな熱さを感じさせて、舞衣の鼓動は少しずつ速くなってゆく。
「君はこれからどうするの?」
恩師から何か聞いていたのだろうか、モデルの仕事が終わった舞衣の今後を訊ねた徹平だったが、
「結婚するんです」
という舞衣の一言に一瞬表情が硬くなった。
「穏やかな家庭で穏やかに過ごすことが私の理想なんです。
先日プロポーズされて結婚することにしました」
「……そうか。
君は理想郷を手に入れたということだね。
それは素晴らしいことだ、おめでとう」
穏やかな人と穏やかに歩いてゆく。
それまでの波瀾万丈の人生を思うと、安心感に満ちた穏やかな人生を歩いてゆく世界はまさに舞衣の理想郷であった。
コーヒーを飲んだあと、促されて舞衣はキャンバスを包んでいた布を取った。
徹平はキャンバスを無表情にみつめている。
室内には時計の秒針の音だけが響く中、キャンバスの前から動かない徹平をみつめる舞衣の鼓動がさらに高鳴ってゆく。
「君は結婚するの?」
唐突な徹平の言葉に驚いた舞衣はしどろもどろになりながら、はいと頷いた。
「相手を想いながらこの絵を描いたの?」
徹平の射るような視線がゆっくりと近づいてきて、舞衣は思わず後ずさる。
「強烈な愛」
「えっ……?」
「静かだけど強烈に熱い恋慕の気持ちをこの絵から感じるんだ。
穏やかな世界を手に入れた君には、ある意味ふさわしくないほどの激しい恋だよ」
深い深い藍色にただ一点、強烈に鮮やかなオレンジの光が放たれた抽象画。
キャンバスに向かう舞衣の目の前にはいつも徹平の視線があった。
徹平のしなやかで力強い視線に舞衣の心は絡めとられて、もはや動くことができなくなっていた。
「君はいったい誰を想いながらこの絵を描きあげたの?」
徹平の腕が舞衣の腰を力強く引き寄せた。
油絵と煙草の匂いが舞衣を包み込み、くらりと目眩がする。
「……答えてくれないか?」
徹平の鼻先が頬をゆっくりとなぞってゆく。
ーー私が望むのは穏やかに生きることなのに、どうして……?
「誰を想いながらこの絵を描いたの?」
嘘は許さないと言わんばかりの強い視線が真っ直ぐに注がれて、舞衣の恋心はついに溢れ出す。
「奥沢さんを、想いながら……」
その先の言葉はゆっくりと徹平の唇に塞がれてしまう。
あれだけ願っていた穏やかな世界よりも自分が欲したのは、まさに真逆の刺激溢れる世界だったことにようやく納得できた気がした。
このひとの視線からは逃れられないーー。
逃れたくない。
晴人との穏やかな日々が次第に遠ざかってゆく。
熱を帯びて降り注いでくるキスに身体が埋もれるような甘い痺れを感じながら、舞衣は心が求めるままに現実を生きていこうと、ゆっくりと徹平の首に腕を回してゆくのだった。
完
突然、電気グルーヴの『シャングリラ』という曲が脳内再生されまして、懐かしい〜(●´ω`●)と思いながらこの物語を書いてみました。
まーたるの想像の世界にお付き合いくださると嬉しいですヽ(*^ω^*)ノ✨💕
2021年もまーたるのショートストーリーをよろしくお願いいたしますヽ(*´∀`)
最後までお読みくださりありがとうございます
(*´꒳`*)