まーたる、ショートストーリーを書いてみた第24弾ヽ(*´∀`)
お楽しみいただけたら幸いです(*´∀`*)
「散歩道」
雨が上がった。
傘をたたんで見上げた空は少し明るくなり始めて、足元からゆっくりと立ち昇る雨水が染み込んだ土の匂いを、私は幸せな気持ちで吸い込んだ。
ーーやっと雨が止んだ……。
ホッとしたように私は少し笑う。
秋の長雨らしい雨はこのところずっと降り続いて、日課にしてある散歩もついつい億劫になってしまっていたのだ。
雨は嫌いではないけれど、散歩に行くのならやはり青空の下をてくてく歩きたい。
窓の外を眺めていてもなかなか止まない雨に痺れを切らして、私は久しぶりの散歩に出ようと思った。
つい一時間ほど前は大きな雨粒が窓ガラスを伝っていたのに、外に出ると降っているのかどうかわからないくらいの霧雨に変わっていた。
その内に止むかもしれない、そう思って嬉々として散歩に繰り出した私だった。
外に出ていくらも経たない内に私の予想通り雨は止み、止んでしまうとお気に入りの水玉の傘やモスグリーンのレインブーツが少しずつ明るくなり始めた空の下でどこか所在なげに見えた。
ーーでも、私、やっぱり青空を見上げながらお散歩したいわ。
そう思って歩き出そうとして私はふと足を止めた。
ーー私、どこに行こうとしていたのかしら。
散歩に出たのはいいが、今立っているこの道は一体どこなんだろうと一瞬わからなくなってしまった。
慌てて辺りを見回して、見慣れた学校のグラウンドのすぐ近くだと気がついた私は苦笑いを浮かべた。
ーーそうだ、今日の散歩は懐かしいコースを行こうと決めていたんだわ。
高校生の頃散々通った土手沿いのこの道は、大人になった今でも私にとっては特別なものだった。
社会の荒波に揉まれながらの日々にあって、この空間だけは私が一番輝いていたあの頃のまま何も変わらない。
ここにくると心の奥の奥がじんわりとあたたかくなり、それこそあの頃の楽しい思い出から抜け出すことができなくなるような気がした。
すべてが煌めいて見えたあの頃の日々。
温室のようにあたたかな世界から出ると世間が世知辛いことを嫌でも知ることになった。
寄せては返す波が時折り大波となって自分に襲いくるのを必死でやり過ごす術を身につけるまで、いつしか私は滅多なことではこの場所に寄りつかなくなっていた。
あたたかい場所に戻ってしまったら、もう二度とこの世界に戻ってこれないと思ったから。
そんな場所に行こうと思い立ったのはなぜなのか思い出せないまま、私はぼんやりとグラウンドの方を眺めた。
今日は土曜日だったか日曜日だったか、グラウンドに人の気配はなく、珍しいことに自転車や車の音すら聞こえてこない。
校舎から聞こえるチャイムの音が静まり返った道の上に優しく響いた。
チャイムの余韻が消えるのを待って私はゆっくりと歩き始めた。
雲の切れ間から覗く青空が次第に広がっていき、嬉しくなって私は思わずスキップした。
「転ぶぞ」
ぶっきらぼうだけれどやわらかな声が突然降ってきて、私は思わず身構えてしまう。
「まったく、歳を考えろ。
女子高生でもあるまいし」
「そうちゃん!」
少し伸びた前髪を鬱陶しそうにかき上げながら、そうちゃんは呆れたように息をついた。
「どうしたの?
そうちゃんもお散歩?」
私のゆったりした声にそうちゃんは一瞬小さく目を見開いたが、やがてゆっくりと苦笑いを浮かべて鼻をちょっとこすった。
「まぁ、そんなところだ」
恥ずかしかったり照れたときに鼻をこする癖は昔から変わらない。
小学生の頃都会から転校してきたそうちゃんはすぐにクラスの人気者になった。
男子たちからはいつもドッジボールやケイドロに誘われていたし、バレンタインデーには女子たちがこぞってチョコレートを渡しに行っていた。
何をするにもスローテンポな私は完全に出遅れて、そうちゃんとはほとんど口を聞かないまま卒業した。
ーーそうちゃんと初めてしゃべったのは……。
そうちゃんのスッと伸びた形のいい鼻筋をみつめながら、私は初めて会話を交わしたときのことを思い出した。
中学3年生で同じクラスになって初めての席替えで、私はそうちゃんの隣の席になったのだ。
クラスの女子からは嫉妬と羨望の眼差しを一身に受けてちょっと居心地は悪かったけれど、そうちゃんの隣になったことで初めて自分のクジ運に感謝した。
それまではやれ掃除当番だとか、やれクラス委員長だとかのクジには悉く当たっている私なのだ。
現に今だってあみだクジで見事にクラス委員長に当選してしまっている。
ーー私のこと、記憶にもないんだろうな。
そう思ってドキドキしながらそうちゃんの隣の空いた席にそっと座った。
人の気配に机に突っ伏して眠っていたそうちゃんが顔を上げる。
頬っぺたにシャツの袖口にあるボタンの跡がくっきりと張り付いているのに、私は思わずプッと吹き出してしまった。
「なんだよ、超久しぶりに会ったっていうのに笑うなよな」
「……私のこと、覚えてるの?」
「忘れるわけないだろ?
糸澤小枝。
6年のとき同じクラスだったんだから」
オレの記憶力、バカにすんなよなとそうちゃんは言って、少し面白くなさそうに鼻をこすった。
頬っぺたにくっきりと残るボタンの跡とまるで小さい子が拗ねたような表情が、女子たちの言う『クールでカッコいい』そうちゃんとかけ離れていて私はまた笑ってしまった。
そうちゃんが覚えてくれていたことが嬉しくて笑う私をしばらくポカンと見ていたそうちゃんも、私の笑い声につられたのかその内あははっと笑い始めた。
「あのときはなんて失礼なやつなんだって思ったよ。
人の顔見て急に笑い出すんだからな」
そうちゃんも思い出したのかムスッとした表情になった。
「女の子たちからはクールだとか、超カッコいいとか言われてたそうちゃんが、頬っぺたにボタンの跡をくっつけてたんだもの。
なんだか面白くなっちゃって。
それにね、そうちゃんが私を覚えててくれたことがすごく嬉しかったんだ」
そう言った私をチラッと見て、
「忘れるわけないだろ」
そうちゃんは小さな声で呟いて、また鼻の横をこすりながら横を向いた。
それから急速に近づいたそうちゃんと私は、奇跡的に同じ高校へ進んだ。
進学校としてわりと名の知られた高校。
常に成績もトップクラスだったそうちゃんは合格圏内だったけれど、努力圏内にいた私は人生イチっていうくらい必死に勉強したっけ。
大の苦手の数学を克服するために、そうちゃんは自分の勉強をさて置いて教えてくれた。
ごめんねって謝った私の正面に立って、
「オレがおまえと一緒にいたいんだ。
これからも、ずっと、一緒にいたい。
だからこれはおまえのためっていうよりも、自分のためにやってることだから」
気にすんな、と頭をポンと叩いたその瞬間に初めて重なった唇のあたたかさは、一生忘れることはない。
ーーあのときもこの散歩道だったな。
少し前を歩くそうちゃんの背中をみつめながら、私の心に甘酸っぱいあのときの想いが蘇る。
「ドキドキしたんだ、あのとき」
「えっ?」
「初めてキスしたときさ」
今、思い出してただろ?と、そうちゃんは意地悪な笑みを浮かべた。
そんなにわかりやすく顔に出ていたんだろうかと恥ずかしくなって、私は思わず俯いてしまう。
「忘れてないよ」
そうちゃんの声がひどく優しく響いて、私の心に限りのない愛おしさが込み上げてきた。
「この道にはめちゃくちゃ思い出があるよな、オレたち」
雨上がりの青空はいつのまにか橙色に染まり始めて、頬をかすめるように風がゆるやかに吹いている。
土手沿いに続くどこまでもまっすぐに伸びる道。
高校でも女子に人気があったそうちゃんを信じられなくて、そうちゃんの心を疑って別れようとした私と大げんかしたのも、仲直りしたのもこの道の上だった。
大学ではそれぞれの進路に進学して、それぞれに新しい友達もできたし、好きだと言ってくれる人もいた。
でもどうしてだろう。
そうちゃんじゃないと。
私が私でいられるのは、そうちゃんの前だけ。
ずっと一緒にいたいと思うのは、世界中でそうちゃんだけ。
ーー神様の前で誓い合った9月のあの日、どんなに私が幸せだったかわかるかしら。
私が人生で一番幸せだったあの日の朝も、こうして二人でここにいた。
「そうちゃんのプロポーズすごくすごく嬉しかったけど、一つ不満があるの」
「ええ⁉︎
今さら、何⁉︎」
そうちゃんはびっくりしていたけれど、どこか面白そうな笑みを浮かべていた。
『マタオモシロイコトイッテンナ』
「そうちゃんとは長い付き合いだけど、私、一度も愛してるって言われたことない」
「いつも好きだって言ってる」
「でも愛してるって言われてみたい!」
食い下がる私を横目に見たそうちゃんは、顔を真っ赤にしてぷいっとそっぽを向いてしまった。
ーーシャイなそうちゃんに無理言って怒らせちゃったかな……。
大切な日なのに……。
すっかりしょげ返った私のあごを持ち上げて、
「オレが先に空に還るときにでも言ってやるよ」
「ええ⁉︎
どうして⁉︎
それじゃ遅いよ!
今、今聞きたい!」
「だーめ。
大切な日の朝にオレを困らせた罰!」
オレはシャイ・ガイなんだぞとニヤリと笑ったそうちゃんは、私に優しくキスをした。
青空は一面橙色に染まっていった。
眩しかった太陽の光はやわらかな優しい光となって辺りを照らしている。
ずいぶんと歩いたせいか足が怠くなってきた。
前を歩くそうちゃんは昔と変わらずに早足だけれど、そっと手を差し出してのんびり歩く私に合わせるように歩幅を小さくしてくれている。
あたたかなそうちゃんの手を握りしめながら、なぜだか涙が込み上げてきた。
昔と変わらない、優しいそうちゃん。
「もう着いたぞ」
そうちゃんの声にハッとすると、いつのまにか家の前だった。
「風が冷たくなってきた。
もう入れ」
おまえはすぐ風邪引くんだからなと、そうちゃんは笑う。
「おまえはいつも通り、のんびり来ていいからな。
こんなときだけ素早くなるなよ」
握りしめたそうちゃんの手が皺だらけなのを見て私はハッとした。
いつのまにか手と同じように皺に覆われたそうちゃんの顔を見て、私は込み上げてくる涙を無理やり抑え込んで笑顔を浮かべた。
「小枝。
愛してる」
「そうちゃん……」
「愛してる……」
握りしめていたはずのそうちゃんのあたたかな手はいつのまにかやわらかい真っ白な花びらに変わり、そうちゃんの姿はさあっと吹いてきた風にかき消されたように消えてしまった。
そうちゃんの優しい声が耳の奥でいつまでも響いて、手の中の花びらをみつめて佇んでいる私に橙子が声を上げて駆け寄った。
「ママ!」
涼やかな目元がそうちゃんによく似た私たちの娘。
そうちゃんと私の大切な宝物が目にいっぱい涙を浮かべて立ち尽くしていた。
「ママ!
どこへ行ってたの⁉︎
心配したのよ!
ママまで私の前からいなくなったらって、すごく怖かったんだから!」
そう言って泣きながら抱きつく橙子の足元に、小さな女の子が今にも泣き出しそうなくらい不安気に立っている。
「ほらほら、梨花ちゃんがびっくりしてるわよ」
ばあば、と言って抱きついてきた梨花を抱き上げると、甘やかな匂いが鼻先をくすぐった。
「ママ、もう心配させないで。
パパのそばにいてあげて」
本当にどこへ行っていたの?という橙子の問いに、散歩よ、と嬉しそうに言った私を見て、橙子はとてつもなく悲し気な表情になってまた涙を零し始めた。
「そうちゃんと最後にお散歩してきたの。
そうちゃんが約束を守ってくれたのよ」
「約束?」
「ママが一番欲しかった言葉、覚えていてくれたのよね。
そうちゃんはママとの約束は必ず守ってくれたわ。
でも……」
このドアの向こうにはそうちゃんがいる。
小学生の頃に出会ってから今まで、ぶっきらぼうだけどいつも隣で優しく微笑んでくれたそうちゃん。
どんな約束だってちゃんと守ってくれたそうちゃん。
ドアを開けると百合の花の匂いが立ち込めて私を包む。
オレが空に還るときはお香を焚くのはよしてくれよと、ベッドの上で微かに笑ってそうちゃんは言った。
ーー花がいいな、綺麗な白い花。
オレはその花を持っていくよ。
そうしておまえの上に花びらを降らせてやるよ。
あの日教会で降ってきたライスシャワーみたいにさ。
白い布団に横になっているそうちゃんの傍に座り、そっと手に触れてみた。
ついさっき握りしめたときはあんなにあたたかかったのに、今では氷のように冷たいそうちゃんの手を握りしめながら、もうそうちゃんはいないのだと思った。
くだらないことでけんかしたり、同じ景色を見て感動したり、おいしいものを半分こにすることはもう二度とできないのだ。
どんな約束も守ってくれたそうちゃん。
ーーでも……。
「愛してる」
そうちゃんの優しい声が再び耳に蘇る。
「この約束だけは、ずっと守らないでほしかったのに」
微かに微笑みを浮かべたそうちゃんの顔はどこか面白そうで、最期までそうちゃんはそうちゃんだなと、私は溢れる涙をぐいっと拭った。
「愛してる」
60年分の想いを込めて、私はそうちゃんにキスをした。
完
ある道を車で走っていて、ふと『散歩道』という言葉が降りてきて書き上げた物語です。
二人の間に育まれた純愛にも似た強い想いを感じていただけたら嬉しいです(●´ω`●)
最後まで読んでくださりありがとうございます(*´꒳`*)